ェねとなれるかと疑はるゝ平原を見るのみ。半ば埋れたる寺塔は寂しげに道の側に立てり。處々に新に造りたる人家と葡萄圃《ぶだうばたけ》とあり。博士われ等を顧みて云ふやう。この境の慘状をばわれ目《ま》のあたり見ることを得たり。われは猶幼かりき。この車轍の過ぐるところは、其時火※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]の海をなし、その怖ろしき流は山岳の方より希臘塔市(トルレ、デル、グレコ)の方へ向ひたり。葡萄圃は多く熔巖に掩《おほ》はれ、父とわれとの立てる側なる岩は其光を受けて殷紅《あんこう》なり。寺院の火海の中央に漂へるさまはノア[#「ノア」に傍線]の船に異ならず、その燈の未だ滅せざるが微かに青く見えたり。われは生涯その時の事を忘れず。父の燒け殘りたる葡萄を摘みてわれに食はせしは、今も猶|昨《きのふ》のごとしと云ひぬ。
 凡そ拿破里《ナポリ》の入江の諸市は、譬へば葡萄の蔓の梢より梢にわたりて相|連《つらな》れるが如く、一市を行き盡せば一市又前に横《よこたは》る。(希臘塔市の次は即トルレ、デル、アヌンチヤタの市なり。)道は此熔巖の平野に至るまで、都會の大街《おほどほり》に異ならず。馬に乘る人、驢《うさぎうま》に騎る人、車を驅る人など絶えず往來して、その間には男女《なんによ》打ち雜りたる旅人の群の一しほの色彩を添ふるあり。
 初めわれはエルコラノ[#「エルコラノ」に二重傍線]もポムペイ[#「ポムペイ」に二重傍線]も深く地の底に在りと思ひき。されど其實は然らず。古のポムペイ[#「ポムペイ」に二重傍線]は高處に築き起したるものにして、その民は葡萄圃のあなたに地中海を眺めしなり。われ等は漸く登りて、今暗黒なる燼餘の灰壘を打ち拔きたる洞穴の前に立てり。洞穴の周圍には灌木、草綿など少しく生ひ出でゝ、この寂しき景に些《いさゝか》の生色あらせんと勉《つと》むるものゝ如し。われ等は番兵の前を過ぎて、ポムペイ[#「ポムペイ」に二重傍線]の市《まち》の口に入りぬ。
 博士マレツチイ[#「マレツチイ」に傍線]は我等を顧みて、君等は古のタチツス[#「チツス」に傍線]をもプリニウス[#「プリニウス」に傍線]をも讀み給ひしならん、凡そ此等の書《ふみ》の最も好き註脚は此市なりと云ひたり。われ等の進み入りたる道を墳墓街と名づく。許多《あまた》の石碣《せきけつ》並び立てり。二碑の前に彫鏤《てうる》したる榻《こしかけ》あり。是れポムペイ[#「ポムペイ」に二重傍線]の士女の郊外に往反《ゆきかへり》するときしばらく憩ひし處なるべし。想ふに當時この榻《こしかけ》に坐するものは、碑碣のあなたなる林木郊野を見、往來織るが如き街道を見、又波靜なる入江を見つるならん、今は唯だ窓※[#「片+(扈の邑に代えて甫)」、第3水準1−87−69]《さういう》ある石屋《せきおく》の處々に立てるを望むのみ。屋《いへ》は地震の初に受けたりと覺しき許多《あまた》の創痕を留めて、その形|枯髑髏《されかうべ》の如く、窓は空しき眼※[#「穴/巣」、第4水準2−83−21]《がんさう》かと疑はる。間※[#二の字点、1−2−22]當時|普請《ふしん》の半ばなりし家ありて、彫りさしたる大理石塊、素燒の模型などその傍《かたはら》に横れり。
 われ等は漸くにして市の外垣に到りぬ。これに登るに幅廣き石級あり。古劇場の觀棚《さじき》の如し。當面には細長き一條の町ありて通ず。熔巖の板を敷けること拿破里の街衢《がいく》と異なることなし。蓋《けだ》しこの板は遠く彼基督紀元七十九年の前にありて噴火せし時の遺物なるべし。今その面を見るに、深く車轍を印したればなり。家壁には時に戸主の姓氏を刻めるを見る。又|招牌《かんばん》の遺れるあり。偶々《たま/\》その一を讀めば、石目細工の家と題したり。
 家裏《やぬち》を窺ふに、多くは小房なり。門扇上若くは仰塵《てんじやう》より光を採りたり。中庭の大さは大抵僅に一小花壇若くは噴水ある一水盤を容るゝに足り、柱廊ありてこれを繞《めぐ》れり。壁又|歩牀《ゆか》には石目もて方圓種々の飾文を作る。白青赤などの顏料もて畫ける壁を見るに、舞妓、神物の類猶頗る鮮明なり。博士とフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]とはこの美麗にして久しきに耐ふる顏料の性状を論ずと見えしが、いつかバヤルヂイ[#「バヤルヂイ」に傍線]が大著述の批評に言ひ及びて、身の何《いづれ》の處に在るかを忘るゝものゝ如くなりき。(バヤルヂイ[#「バヤルヂイ」に傍線]の著カタロオゴ、デリ、アンチイキイ、モヌメンチイ、デルコラノは大判紙十卷ありて千七百五十五年の刊行なり。)幸に我は平生多く書《ふみ》を讀まざりしかば、此物語に引き入れらるゝ虞《おそれ》なく、詩趣ゆたかなる四圍《あたり》の光景《ありさま》は、十分に我心胸に徹して、平生の苦辛はこれによ
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