ェりたり。此時人の足音して一間《ひとま》の扉は外より開かれ、主人はフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]と共に入り來りぬ。サンタ[#「サンタ」に傍線]夫人は徐《しづか》に友を顧みて、好き處に來給ひたり、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]君は熱を患《うれ》へ給ふにやあらん、心地惡しとのたまひつゝ、忽ち青くなり又赤くなり給ふ故、安き心はあらざりきなど云ひ、又我に向ひて、いかに、今は前《さき》の如くにはあらざるならんと云ふ。その面持《おもゝち》すこしも常に殊ならず。われは心の底に、言ふべからざる羞《はぢ》と憤《いきどほり》とを覺えて、口に一語をも出すこと能はざりき。博士は例の古語を引きて、客人《まらうど》心地はいかなるにか、クピド[#「クピド」に傍線](愛の神)の磨く箭《や》にや中《あた》り給ひしなどいひつゝ、われ等に酒を勸めたり。夫人はわれと杯を打※[#「石+並」、第3水準1−89−8]《うちあは》せて、意味ありげなる目を我面に注ぎ、これを乾《ほ》さばや、好《よき》機會《をり》のためにと云ふに、我友|點頭《うなづ》きてげに好機會は必ず來べきものぞ、屈せずして待つが丈夫《ますらを》の事なりと云ふ。この時博士も亦杯を擧げて、さらば我もその好機會のために飮まんと云ひぬ。夫人は高く笑ひて手もて我頬を撫でたり。

   古市

 翌朝フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]は博士マレツチイ[#「マレツチイ」に傍線]と共に我客舍に來て促《うなが》し立て、打ち連れて馬車に上りぬ。車は拿破里《ナポリ》の入江を匝《めぐ》りて行くに、爽かなる朝風は海の面より吹き來れり。友は遙にヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]の山を指さして、あの烟の渦卷き騰《あが》る状《さま》を見よ、今宵は興ある遊となるべきぞと云ひしに、博士|首《かうべ》を掉《ふ》りて、かばかりの烟は物の數ならず、紀元七十九年の噴火の時を想ひ見給へと云ひぬ。拿破里の町はづれを過ぎて、程なくサンジヨワンニイ[#「サンジヨワンニイ」に二重傍線]、ポルチチ[#「ポルチチ」に二重傍線]、レジナ[#「レジナ」に二重傍線]の三市の相連れるを見る。そのさま一市をなせるが如し。レジナ[#「レジナ」に二重傍線]に至りて車を下れば、われ等の踐《ふ》める所の脚下は、早く是れ熔巖熱灰のために埋沒せられしエルコラノ[#「エルコラノ」に二重傍線]の古市なり。

 博士に延《ひ》かれて一家に入れば、その中庭に大なる枯井あるを見る。井の裏には螺旋梯《らせんばしご》を架したり。博士われ等を顧みて云ふやう。見給へ人々。これこそ紀元千七百二十年エルボヨフ[#「エルボヨフ」に傍線]公の掘らせし井なれ。穿《うが》つこと僅に數尺にして石人現れければ、その工事は遽《にはか》に止められき。これより人の手を此井に觸れざること三十年。西班牙《スパニア》王カルロス[#「カルロス」に傍線]此《こゝ》に來て猶深く掘らせしに、見給へ、かしこの奧に見ゆる石階に掘り當てたりと云ふ。われ等はその井をさし覗《のぞ》くに、日光はエルコラノ[#「エルコラノ」に二重傍線]の市《まち》なる大劇場の石階の隅を照せり。案内者は燭を點して、われ等をして各※[#二の字点、1−2−22]これを手にせしめつ。降りて石階の上に立てば、誰か能く懷舊の情の胸間に叢《むらが》り起るを覺えざらん。是れ千七百載の昔、羅馬の民の集《つど》ひ來て、齊《ひと》しく眸《ひとみ》を舞臺の光景に凝《こら》し、共に笑ひ共に感動し共に喝采歡呼せし處なるにあらずや。側なる低く小き戸を過ぐれば、闊《ひろ》き廊《わたどの》あり。われ等は舞庭《オルヘストラ》に下りぬ。(舞臺と觀棚《さじき》との間に在り。)樂人房、衣房、舞臺などを見めぐるに、其結構の宏壯なるは、深く我心を感ぜしめき。燭光の照すところは數歩の外に出でざれども、われはその大さ「サン、カルロ」座に踰《こ》ゆべしと想ひぬ。われ等の四邊《あたり》は空虚幽暗寂寥にして、われ等の頭上には別に一箇の熱鬧《ねつたう》世界あるなり。世には既に死したる人のわれ等の間に迷ひ來て相交ることありとおもへるものあり。われは今これに反して、獨り泉下に入りて身を古の羅馬人の精靈の間に※[#「宀かんむり/眞」、第3水準1−47−57]《お》きたりとおもひぬ。われは人々を促して梯を登りぬ。
 右に轉じて一小巷に入れば、古市の一小部の發掘せられたるあり。數條の徑《みち》、小房多き數軒の家あり。その壁には丹青の色殘れり。エルコラノ[#「エルコラノ」に二重傍線]の市の天日に觸るゝ處は唯だこれのみなりといへば、工事の未だはかどらざることポムペイ[#「ポムペイ」に二重傍線]の比《たぐひ》にあらずと覺し。
 レジナ[#「レジナ」に二重傍線]を背にして車を馳すれば、目の及ばん限、只だ大海の忽ち凝《こ》りて黒
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