泄焉sそゞろあるき》して、汝が目の赤きを風に吹き消させ、さて共にマレツチイ[#「マレツチイ」に傍線]夫人の許に往かん。夫人は汝と共に笑ひ共に泣きて、汝が厭ふをも知らぬなるべし。こは我が能くせざるところにして夫人の能くするところなり。いざ/\と勸めつゝ、友は我を拉《ひ》きて街上を行き巡り、遂に博士の家に入りぬ。
 夫人は出で迎へて、好くこそ來給ひたれ、君等の定《さだめ》の日を待たで來給はんは何時《いつ》なるべきと、兼ねてより思ひ居たりといふ。友。わがアントニオ[#「アントニオ」に傍線]は又例の物の哀《あはれ》といふものに襲はれ居れば、そを少し爽かなる方に向はせんは、おん宅ならではと思ひて參りしなり。明日は共にエルコラノ[#「エルコラノ」に二重傍線]とポムペイ[#「ポムペイ」に二重傍線]とに往きて、ヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]の山にも登らんとす。折好く噴火の壯觀あれかしと願ふのみといふ。博士聞きて友に對《むか》ひて云ふやう。そはいと好き消遣《せうけん》の法なり。われも暇《いとま》あらば共にこそ往かまほしけれ。ヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]に登らんは煩《わづら》はしけれど、ポムペイ[#「ポムペイ」に二重傍線]の發掘の近状を見んこと面白かるべし。われはかしこより彩色の硝子器《ガラスうつは》數種を得たれば、この頃そを時代別《じだいわけ》にして小論文一篇を作りぬ。今君に見せて、彩色に關する二三の疑を質《たゞ》さばやと思ふなり。アントニオ[#「アントニオ」に傍線]君はしばし妻の許に居給へ。後には集りて一瓶の「フアレルノ」(フアレルナ[#「フアレルナ」に二重傍線]に産する葡萄酒)を傾け、ホラチウス[#「ホラチウス」に傍線]が詩を歌はんと云ふ。かくて主人は友を延《ひ》いて入り、我をばサンタ[#「サンタ」に傍線]夫人の許に留め置きぬ。
 夫人。君は又新しき詩を作り給ひしならん。君が面を見るにその經營慘憺とやらんいふことの痕深く刻まれたる如きを覺ゆるなり。さきにはタツソオ[#「タツソオ」に傍線]の詩を誦《ず》して聞せ給ひしが、その句は今も我|懷《おもひ》に往來《ゆきき》して、時ありては獨り涙を墮《おと》すことあり。そはわが泣蟲なるためにはあらず。など少しく氣を霽《はれ》やかにして我面を見て面白き事を語り聞せ給はざる。尚|默《もだ》して居給ふか。若し言ふべきことなくば、わがこの新しき衣《きぬ》をだに譽《ほ》め給へ。好く似合ひたるにあらずや。體にひたと着《つ》きてめでたからずや。詩人はかゝる些細なる事をも心に留めでは叶はぬものなり。我姿のすらりと痩せて「ピニヨロ」の木の如くなるを見給はずや。われ。そは直ちに心付き候ひぬ。夫人。おん身はまことに世辭《せじ》好《よ》き人なり。我姿はいつもの通りなり。衣は緩《ゆる》く包みし袱《ふく》の如し。否々、面を赤うし給ふことかは。おん身も年若き男達の癖をばえ逃れ給はずと思はる。今少し多く女子《をなご》に交り給へ。われ等はおん身を教育すべし。おん身の友と我夫とは、今その考古學の深みに嵌《は》まり居て、身動きだにせざるならん。いざ共に「フアレルノ」を飮まん。後には人々と同じく改めて杯を把り給ひても好しといふ。夫人に斯く勸められて、われは急に酒飮むことを辭《いな》み、世の常の物語せばやと、一言二言いひ試みしが、胸の憂に詞《ことば》淀《よど》みて、いかにも心苦しければ、夫人よ恕《ゆる》し給へ、われは今快からず、さるを強ひて物語せば、そは徒《いたづら》におん身を惱ますに近からんと云ひつゝ、起ちて帽を取らんとせしに、夫人は忽ち我手を把《と》りて再び椅子に着かしめ、優しく我顏を目守《まも》りて云ふやう。今は歸し參らせじ。おん身は何事にか遭ひ給ひしならん。心を隔て給ふことかは。わが氣輕なる詞つきは、おん身の心を傷つけたらんも計られねど、そは稟賦《うまれつき》なれば、是非なし。われはまことにおん身の上を氣遣へり。何事にか遭ひ給ひしならば、包まずわれに語り給へ。故里《ふるさと》の文《ふみ》をや得給ひし。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]が創のためにみまかりしにはあらずやと云ふ。初めわれは主公の書《ふみ》を得たることを此人に告げん心なかりしが、斯く問はれて心弱く、有の儘に物語りぬ。さて詞を續ぎて、われは全く世に棄てられたり、世には一人の猶我を愛するものなしと欷歔《ききよ》して叫びし時、否、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]と云ふ聲耳に響きて、われは温き掌の我額を撫で、忽《たちまち》又熱き唇の其上に觸るゝを覺えき。否、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]猶おん身を愛する人あり。おん身は善き人なり、可哀き人なり。夫人はかく言ひつゝ、もろ手もて我頭を抱き、その頬は我耳の邊に觸れたり。我血は湧き返りて、渾身震ひ氣息|塞《ふさ》
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