と同じく、何の恩讐《おんしう》も無之、一切|事濟《ことずみ》と看做《みなし》候て宜《よ》かるべしと存候。然上《しかるうへ》は即興詩人と爲り藝人と爲りて公衆の前に出でられ候とも、拙者に於いて故障等可申には無之候。唯此際申入置度は、後日貴君の拙者一家に於ける從來の關係等、一切口外下さる間敷《まじき》儀に御座候。生涯當家の恩義忘却致さずとは先年度々申聞けられ候處に有之候へども、拙者に報ずる所以の最大事件たる學問修行をば塵芥の如く棄てられ候て、今は其最小事件即ち拙者を呼ぶに恩人を以てせられ候儀さへ、拙者の心に屑《いさぎよし》とせざるものと成果《なりはて》候段、歎息の外無之候。草々不宣。
[#ここで字下げ終わり]
 われは血の胸に迫るを覺えて、兩手《もろて》は力なく膝の上に垂れたり。泣かば心鎭まるべけれども涙出でず、祈らば力着くべけれども語《ことば》出でず。我は悶絶せる人の如く、頭を卓上に支へて坐すること良※[#二の字点、1−2−22]《やゝ》久しかりしが、其間何の思ふところもあらざりき。われは痛苦をだに明には覺えざりしなり。只だ心の底には言ふべからざる寂しさを感じて、今は聖母《マドンナ》さへ世の人と同じく我を見放し給ふかと疑ひおもへり。
 フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]はこゝに來ぬ。進みて我手を握りて云ふやう。病めるか、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]。獨り物思ふは惡しき事なり。汝はアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]を失ひて不幸なりといへど、我は汝のアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]を得て幸なるべかりしや否やを知らず。我經歴に徴するに、大抵わが遭逢せし所は、後に顧みるにわが最も宜《よろ》しき所なりし也。然れども運命の人を引き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]すは、間※[#二の字点、1−2−22]|頗《すこぶ》る手荒きものにて、人はこれを痛苦とし不幸とするなりといふ。我は詞なくて、卓上の書状を指し、友のこれを讀む間、これに背《そむ》きて涙を拂ひつ。友は我肩を撫でゝ、泣くが好し、泣かば心落着くべしと云へり。暫しありて友は我に、此書状を見たる後、既に思ひ定むる所ありやと問ひたり。此時われは忽ち思ひ付くよしありて、友に向ひて語り出でぬ。聞け吾友、われは僧とならんとす。我は幼きより聖母《マドンナ》に仕へたるが、今思へば淺からぬ縁《えにし》ありしならん。聖母の慈悲は廣大なれば、縱《たと》ひ一たび我を棄て給ふとも、いかでか我懺悔を聞き給はざることあらん。われは空想人物にて、汝等と同じからず。世間に立ち交《まじ》るとも、何の益かあるべき。若《し》かじ、今の機到り縁熟せるを幸として、平和を寺院の中に求めんには。友。おろかなり、アントニオ[#「アントニオ」に傍線]。否運《ひうん》に遭《あ》ひて志を屈せずしてこそ人たる甲斐はあれ。汝の氣力あり技倆あるを、傲慢なる羅馬の貴人《あてびと》に見せよ、世間に見せよ。詩人は賤《いや》しき業《わざ》にあらず。汝は才あり學あればこそ、詩人とならんとは思ひ立ちしなれ。汝が前途は多望なり。されどわれおもふに、わが斯く辭《ことば》を費すはいたづら事にはあらずや。汝が僧とならんといふは、けふの黄昏《たそがれ》の暗黒なる思案にて、あすは旭日の光に觸れて泡沫のごとく消え去るべきものにはあらずや。兎まれ角まれ、汝が病をばわが手ぬかりにて長じたりと覺《おぼ》し、汝は獨り籠り居て蟲をおこしたるならん。あすは車一輛|倩《こ》ひて、エルコラノ[#「エルコラノ」に二重傍線]、ポムペイ[#「ポムペイ」に二重傍線]に往き、それよりヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]の山に登るべし。先づ今宵は大路《トレド》まで出でゝ、面白く時を過さん。世の中は驅足《かけあし》して行く如し。而して人々のおのが荷を負ひたり。鉛の重さなるもあり。翫具《おもちや》と一般なるもあり。友は斯く語りつゝ我を促し立てゝ出で行かんとせり。嗚呼、我にも猶此の如く慰め呉るゝ友あるこそ嬉しけれ。我は默して帽を戴き、友の後に跟《つ》きて出でぬ。

   好機會

 戸を出づれば小屋掛《こやがけ》の小劇場より賑かなる音樂の聲聞ゆ。われ等二人は群集の間に立ちてその劇場の状《さま》を看たり。夫婦と覺しき男女《なんによ》、表《おもて》をのみ飾りたる衣を纏《まと》ひて板敷の上に立ちたるが、客を喚《よ》ぶことの忙しさに、聲は全く嗄《か》れたり。色蒼ざめたる一童子「ピエロオ」(滑稽役)の服を着けて、悲しげに「ヰオリノ」彈けば、姉妹なるべし、少女《をとめ》二人のこれを繞《めぐ》りて踊るを見る。哀なるかな此人々。その運命のはかなきこと我と同じきなるべし。我は大息《ためいき》を抑へて友の肩に倚《よ》りたり。友は慰めて云ふやう。物思《ものもひ》も好き程にせよ。暫くこの邊《あたり》を
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