ラからず褻《な》るべからざる所ありしに比ぶれば、固《もと》より及ぶべくもあらねど、かの捉へ難き過去の幻影には、最早この身近き現在の形相《ぎやうさう》を斥《しりぞ》くる力なかりしなり。
或時我は又サンタ[#「サンタ」に傍線]と對坐して語れり。夫人。近ごろポジリツポ[#「ポジリツポ」に二重傍線]の眺好き家と顏好き女とを尋ね給ひしか。われ。否、前後二たび往きしのみ。夫人。女は最早餘程おん身になじみしならん。子供は案内者に雇はれ、主人は漁《すなどり》に出でゝ在らざりしにはあらずや。用心し給へ、拿破里《ナポリ》の海の底は、やがて地獄なりといへば。われ。否、我心を引くものは唯景色のみなり。かの賤女《しづのめ》いかに美しとて、決して我を誘ひ寄すること能はざるべし。夫人。吾友よ、われは明におん身の心を知れり。曩《さき》にはその心に初戀の充※[#「牛+刃」、第4水準2−80−18]《きざ》したるため、些の餘地だになかりき。われは君が初戀を陋《いや》しとせざるべし。されどその敵手《あひて》なる女の、君の直きが如く直からざりしは、爭ふべからざる事實なるべし。否、我話の腰を折り給ふな。さてその初戀の眞の價《あたひ》は兎《と》まれ、角《かく》まれ、その君が心に充※[#「牛+刃」、第4水準2−80−18]したるもの、今や無慙《むざん》にも引き放ちて棄てられ、その跡は空虚になりぬ。この空虚は何物もて填《うづ》むべきか。君は昔こそ書《ふみ》を讀み空想に耽りて自ら足れりとし給ひけめ、彼女優の一たび君を現實世界に引き出したる上は、君も亦我等と同じく血あり肉ある人となり給ひて、その血その肉はその本來の權利を求めでは止まざるべし。少壯幾時かある。男兒何の敢てすべからざる事かあらん。されば我に物隱さんとし給ふには及ばざるにあらずや。われ。おん説の前半は、げにさもあるべく思はれて、空虚の事などは首肯しても好し。されどそを填めん策をば未だ講ぜしことあらず。夫人。さらば君は猶我説を問はんとし給ふか。君の既に一たび空想を出でながら、猶再びこれに還りて、一個の空想人物とならんとし給ふが怪しきなり。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は君が理想の女ならずや。高尚なる人物ならずや。それすら空想人物のアントニオ[#「アントニオ」に傍線]の君を棄てゝ、人柄下りたるベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]を取りしなり。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]も男欲しかりしなり。斯く言ひ掛けて、サンタ[#「サンタ」に傍線]は愛らしき聲して笑ひ、おん身の餘りに罪なき性《さが》なるため、我に女の口より言ひ難き事さへ言はしめ給ふこそ憎けれとて、指もて我頬を彈《はじ》きたり。
旅店に還りて獨り思ふに、サンタ[#「サンタ」に傍線]の我を評する言は、昔ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]の我を評せし言と同じ。此頃又フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]の話を聞きしに、その羅馬にありし日の經歴には、我の夢にだに知らざるやうなることもありて、賤《いや》しきマリウチア[#「マリウチア」に傍線]さへその事に與《あづか》れりといふ。世の人はわが厭ひおそるゝところのものを悦び樂むにや。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の我を棄てゝベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]を取りしなどは、現《げ》にもこれを證して餘あるが如くなり。果して然らばアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は我感情を愛して我意志を嫌ひしにやあらん。あらず、わが意志の闕乏《けつばう》を嫌ひしにやあらん、いと覺束《おぼつか》なく心許《こゝろもと》なき事にこそ。
絶交書
拿破里《ナポリ》に來てより既に一月を經ぬ。さるにアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]とベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]との上に就きては、何の聞くところもあらず。或夕一封の書は到りぬ。何人のいかなる便するにかと、打ち返してこれを見るに、印はボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]家の印にして、筆は主公の筆なり。われは心に聖母《マドンナ》を祈りつゝ、開いてこれを讀みたり。其文に曰く。
[#ここから1字下げ]
御書状拜讀|仕候《つかまつりそろ》。素《も》と拙者の貴君の御世話|可致《いたすべく》と決心候節、貴君の爲めに謀《はかり》候は、當地に於いて正當なる教育を受けられ、社會に益ある一人物となられ候樣にと希望候儀に有之《これあり》候。然處《しかるところ》貴君の行跡全く此希望と相反《あひそむき》候は、今更是非なき次第と諦念《あきらめ》候より外無之候。當初|御萱堂《ごけんだう》不幸之|砌《みぎり》、存寄《ぞんじよ》らざる儀とは申《まうし》ながら、拙者の身上共禍因と連係候故、報謝の一端にもと志候御世話も、此の如く相終候上は、最早債を償《つぐの》ひ劵《ふだ》を折
前へ
次へ
全169ページ中89ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
アンデルセン ハンス・クリスチャン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング