らずや。我夫はいつも此の如くなれば、うるさき時は忍びて聽き給ふには及ばず。おん身の兎角沈み勝になり給ふは惡しき事なり。人々と共に樂み給へ。いざ我身おん相手となるべければ、何にても語り聞せ給へ。こゝに來給ひてより、何をか見給ひし、何をか聞き給ひし、何をか最もめでたしと思ひ給ひしといふ。われ。兼ておん身の告げ給ひしに違はず、拿破里はいとめでたき地なり。今日の午《ひる》過ぎなりき。獨り歩みてポジリツポ[#「ポジリツポ」に二重傍線]の巖窟《いはや》に往きしに、葡萄の林の繁れる間に古寺の址《あと》あり。そこに貧しき人住めり。可哀げなる子供あまた連れたる母はなほ美しき女なりき。我は女の注《つ》ぎくれたる葡萄酒を飮みて、暫くそこに憩ひしが、その情その景、さながらに詩の如くなりきと語りぬ。夫人は示指《ひとさしゆび》を竪《た》てゝ、笑《ゑ》みつゝ我顏を打守り、油斷のならぬ事かな、さるいちはやき風流《みやび》をし給ふにこそ、否々、面をあかめ給ふことかは、君の齡《よはひ》にては、精進日《せじみび》の説法聞きて心を安じ給ふべきにはあらぬものをとさゝやきぬ。
夫婦の上にて、此夕わが知ることを得たるところは、いと少かりき。されどサンタ[#「サンタ」に傍線]が性《さが》の拿破里婦人の特色と覺しく、語《ことば》を出すに輕快にして直截《ちよくせつ》なる、人に接するに自然らしく情ありげなるは、深く我心に銘せり。その夫は博學の人と見えたり。共に聚珍館に遊ばんには、これに増す人あるべからず。
われは次第に足近く彼家に出入するやうになりぬ。サンタ[#「サンタ」に傍線]の待遇は漸く厚く親くなりて、われは早くも心の底を打明けて此婦人に語りぬ。後に思へば、われは世馴れぬ節多く、男女《なんによ》の間の事などに昧《くら》きは、赤子に異ならぬ程なれば、サンタ[#「サンタ」に傍線]の如き女に近づくことの、多少の危險あるべきを知るに由なかりしなり。サンタ[#「サンタ」に傍線]が夫は卑しき饒舌家《ぜうぜつか》ならずして、まことに學殖ある人なりしこと、此|往來《ゆきき》の間に明になりぬ。
或日われはサンタ[#「サンタ」に傍線]に語るに、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]と別れし時の事を以てせり。サンタ[#「サンタ」に傍線]は我を慰めて、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]の心ざまを難じ、又アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の性《さが》をさへ貶《おとし》め言へり。そのベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]を難ずる詞は、多少我|創痍《さうい》に灌《そゝ》ぐ藥油となりたれども、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]を貶《おとし》むる詞は、わが容易《たやす》く首肯し難きところなりき。
サンタ[#「サンタ」に傍線]のいふやう。彼女優をばわれも屡※[#二の字点、1−2−22]見き。舞臺に上る身としては、丈《たけ》餘りに低く、肌餘りに痩せたりき。拿破里にありても、若き人々の崇拜|尋常《よのつね》ならざりしが、そは聲の好かりしためなり。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が聲は人を空想界に誘ひ行く力ありき。而してその小く痩せたる身も亦空想界に屬するものゝ如くなりしなり。おん身若し我言を非《たが》へりとし給はゞ、そは猶肉身なくて此世に在らんを好しとし給ふごとくならん。假令《よしや》われ男に生るとも、抱かば折るべき女には懸想《けさう》せざるべしといへり。われは覺えず失笑せり。想ふにサンタ[#「サンタ」に傍線]は話の理に墜つるを嫌ふ性なれば、始より我を失笑せしめんとて此説をなしゝならんか。奈何《いかに》といふにサンタ[#「サンタ」に傍線]もアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が品性の高尚なると才藝の人に優《すぐ》れたるとをば一々認むといひたればなり。
或時われは詩稿を懷にして往きぬ。こは拿破里《ナポリ》に來てよりの近業にて、獄中のタツソオ[#「タツソオ」に傍線]、托鉢僧など題せる短篇の外、無題一首ありき。われは愛情の犧牲なり。わが曾て敬し曾て愛しつる影像は、皆碎けて塵となり、わが寄邊《よるべ》なき靈魂は其間に漂へり。われはサンタ[#「サンタ」に傍線]に向ひ居て詩稿を讀み始めしに、未だ一篇を終らずして、情迫り心激し、われは鳴咽《をえつ》して聲を續《つ》ぐことを得ざりき。サンタ[#「サンタ」に傍線]は我手を握りて、我と共に泣きぬ。わがサンタ[#「サンタ」に傍線]に親むことは、此より舊に倍したり。
サンタ[#「サンタ」に傍線]の家は我第二の故郷となりぬ。われは日ごとにサンタ[#「サンタ」に傍線]と相見て、日ごとに又その相見ることの晩《おそ》きを恨みつ。この婦人の家にあるさまを見るに、其戲謔も愛すべく其氣儘も愛すべし。これをアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の一種近づく
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