uベルナルドオ」に傍線]が姫を得んと欲せしは卑陋《ひろう》なる色慾にして、縱《たと》ひ渠《かれ》一たびその願の成らざるを憂ふとも、渠は月日を費すことなくして、その失望を慰めその遺憾を忘れしならん。わが情はいと高くいと深くして、われ若し姫を獲たらんには、此世の中には最早何の欲望をも殘さゞりしならん。さるを姫は我を棄てゝ渠を取りたり。我|黄金《こがね》なす夢は一旦にして塵芥となり畢《をはん》ぬ。こはそもいかなる故ぞや。此煩惱の間、我は忽ち「キタルラ」の音の街上に起るを聞く。見下せば肩に輕く一領の外套を纏ひて、手に樂器を把《と》り、戀の歌の一曲を試みんとする男あり。未だ數彈ならざるに、對《むか》ひの家の扉は響なくして開《あ》き、男の姿は戸に隱れぬ。想ふに此人を待つものは、優しき接吻と囘抱となるべし。われは星斗のきらめける空を仰ぎ、又熔巖の影處々に紅《くれなゐ》を印したる青海原を見遣りたり。好し々々、我は我戀人を獲たり。我戀人は自然なり。自然よ。汝はわがためにその霽《はれ》やかなる天《そら》を打明けて何の隱すところもなし。汝はそよ吹く風の優しきを送りて、我額我唇に觸るゝことを嫌はず。我は汝が美しさを歌はん、汝が我心を動す所以《ゆゑん》を歌はん。言ふこと莫《なか》れ、汝が心の痍《きず》は尚血を瀝《したゝ》らすと。針に貫《つらぬ》かれたる蝶の猶その五彩の翼を揮《ふる》ふを見ずや。落ちたぎつ瀧の水の沫《しぶき》と散りて猶|麗《うるは》しきを見ずや。これはこれ詩人の使命なり。この世は束《つか》の間《ま》の夢なり。あの世に到らんには、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]も我も淨《きよ》き魂《たま》にて、淨き魂は必ず相愛し相憐み、手に手を取りて神のみまへに飛び行かむ。
 氣力と希望とは再び我胸に入り來れり。わが此より即興詩人として世に立たんは、なか/\に樂しかるべき事ぞと思ひ返されぬ。只だ猶心に懸るは、恩人なる貴人《あてびと》の思ひ給はん程|奈何《いかゞ》なるべきといふ事なり。彼人はわれ舊に依りて羅馬にありて書《ふみ》を讀めりとおもひ給ふならん。彼人のわが都を逃れしさまと我新|境界《きやうがい》とを聞き知り給はんには、果して何とか言はるべき。われは今宵を過ごさで書を裁して、人々に我未來の事を認め許されんことを請《こ》ふことゝなしたり。我書には、子の母に言はんが如く、些《いさゝか》の繕ふことなく有の儘に、我とアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]との中を語り、我が一たび絶望の境に陷りて後、今又慰藉を自然と藝術とに求むるに至れる顛末《てんまつ》を敍して、さて人々の憐を垂れてわが即興詩人となることを許されんを願ひぬ。われはその答を得ん日までは、敢て公衆のために歌はざるべしと誓へり。これを書く時、涙は紙上に墜《お》ちて斑《まだら》をなし、われは心の中に答書の至らんこと一月の間にあらんことを祈るのみなりき。書き畢《をは》りて、われは久し振にて心安く眠に就きぬ。
 翌日フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]はとある横町なる賃房《かしべや》に移り、己れは猶さきの獨逸《ドイツ》宿屋なる、珍らしき山と海との眺ある一間に留まりぬ。われは聚珍館《しうちんくわん》(ムゼオ、ボルボニイコ)、劇場、公苑など尋ねめぐりて、未だ三日《みか》ならぬに、早く此都會の風俗のおほかたを知ることを得たり。

   考古學士の家

 或日|房奴《カメリエリ》は我に一封の書《ふみ》をわたしたり。披《ひら》きて讀めば、博士マレツチイ[#「マレツチイ」に傍線]と夫人サンタ[#「サンタ」に傍線]との案内状にして、フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]君をも伴ひて來ませとあり。初めはわれこは屆先を誤りたる書ならずやと疑ひぬ。宿屋の人に博士はいかなる人ぞと問ふに、いと名高き學者にて、考古學とやらんに長《た》け給ふと聞ゆ、その夫人近きころ羅馬より歸り給ひしなれば、客人は途上にて相識になり給ひしにはあらずやといふ。嗚呼《あゝ》、われこれを獲たり。これこそ前《さき》の拿破里《ナポリ》の貴婦人なるらめ。
 夕暮にフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]を誘ひて往きぬ。いと廣き間に客あまた集へり。滑《なめらか》なる大理石の床は、蝋燭の光を反射し、鐵の格子を繞《めぐ》らしたる火鉢(スカルヂノ)は、程好き煖《あたゝか》さを一間の内に頒《わか》てり。
 サンタ[#「サンタ」に傍線]と名告《なの》れる夫人は、嬉しげに我等二人を迎へて、一坐の客達に引合せ、又我等に、毫《すこ》しも心をおかで家に在る如く振舞はんことを勸めたり。夫人は今宵空色の衣《きぬ》を着たるが、いと善く似合ひたり。我等は若し此人をして少し痩せしめば、第一流の美人たるべきものをとさゝやきたり。
 我等は夫人に促されて坐せり。此時一少女ありて「ピアノ」に對《む
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