Xしからん。交際は無くて協《かな》はぬものにて、又一たび誤りてあらぬ人と相結ぶときは、悔あるべきことなりといふ。われは深くその好意を謝して、善人は隨處にありといふ諺《ことわざ》の虚《むな》しからぬを喜びぬ。夫人は我側に寄りて、兼ねても聞き給ふならん、拿破里は少《わか》き人には危き地なりなど云ひ、猶何事をか告げんとせしに、フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]も房《へや》より出でしかば、物語はこゝに絶えぬ。
我等は又車に乘りたり。今は車中の客も漸く互に打解けて、はかなき世語《よがたり》などしつゝ拿破里の市《まち》に近づきぬ。偶※[#二の字点、1−2−22]|驢《うさぎうま》に騎《の》りたる一群の過ぐるあり。我友はこれを見て、いたくめでたがりたり。紅の上衣を頂より被りて、一人の穉兒《をさなご》には乳房を啣《ふく》ませ、一人の稍※[#二の字点、1−2−22]年たけたる子をば、腰の邊《あたり》なる籠《こ》の中に睡らせたる女あり。又一家族を擧げて一驢の脊に托したりと覺しく、眞中には男騎りて、背後なる妻は臂《ひぢ》と頭とを夫の肩に倚《よ》せて眠り、子は父の膝の間に介《はさ》まれて策《むち》を手まさぐり居たるあり。いづれもピニエルリ[#「ピニエルリ」に傍線]が風俗畫の拔け出でたるかと怪まるゝばかりなり。
空氣は鼠色にて雨少し降れり。ヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]の山もカプリ[#「カプリ」に二重傍線]の島も見えず。葡萄の纏ひ付きたる高き果樹と白楊との間には、麥の露けく緑なるあり。夫人我等を顧みて、見給へ、此野はさながらに饗應のむしろなり、麪包《パン》あり、葡萄酒あり、果《このみ》あり、最早わが樂しき市《まち》と美しき海との見ゆるに程あらじといひぬ。
夕に拿破里に着きぬ。トレド[#「トレド」に二重傍線]の街の壯觀は我前に横はりぬ。(原註。羅馬及ミラノ[#「ミラノ」に二重傍線]にては大街《おほどほり》をコルソオ[#「コルソオ」に二重傍線]と曰ひ、パレルモ[#「パレルモ」に二重傍線]にてはカツサロ[#「カツサロ」に二重傍線]と曰ひ、拿破里にてはトレド[#「トレド」に二重傍線]と曰ふ。)硝子燈と彩《いろど》りたる燈籠とを點じたる店相並びて、卓《つくゑ》には柑子《かうじ》無花果《いちじゆく》など堆《うづたか》く積み上げたり。道の傍には又魚蝋を焚き列ねて、見渡す限、火の海かとあやまたる。兩邊の高き家には、窓ごとに床張り出したるが、男女の群のその上に立ち現れたるさまは、こゝは今も謝肉祭《カルネワレ》の最中にやとおもはるゝ程なり。馬車あまた火山の坑《あな》より熔け出でし石を敷きたる街を馳《は》せ交《か》ひて、間※[#二の字点、1−2−22]馬のその石面の滑《なめらか》なるがために躓《つまづ》くを見る。小なる雙輪車あり。五六人これに乘りて、背後には襤褸《ぼろ》着たる小兒をさへ載せ、又この重荷の小づけには、網床めくものを結び付けたる中に半ば裸なる賤夫《ラツツアロオネ》のいと心安げにうまいしたるあり。挽《ひ》くものは唯だ一馬なるが、その足は驅歩《かけあし》なり。一軒の角屋敷の前には、焚火して、泅袴《およぎばかま》に扣鈕《ボタン》一つ掛けし中單《チヨキ》着たる男二人、對《むか》ひ居て骨牌《かるた》を弄べり。風琴、「オルガノ」の響喧しく、女子のこれに和して歌ふあり。兵士、希臘《ギリシア》人、土耳格《トルコ》人、あらゆる外國人《とつくにびと》の打ち雜《まじ》りて、且叫び且走る、その熱鬧《ねつたう》雜沓《ざつたふ》の状《さま》、げに南國中の南國は是なるべし。この嬉笑怒罵の天地に比ぶれば、羅馬は猶幽谷のみ、墓田のみ。夫人は手を拍《う》ち鳴して、拿破里々々々と呼べり。
車はラルゴ、デル、カステルロ[#「ラルゴ、デル、カステルロ」に二重傍線]に曲り入りぬ。(原註。拿破里《ナポリ》大街《おほどほり》の一にして其末は海岸に達す。)同じ※[#「門<眞」、第3水準1−93−54]溢《てんいつ》、同じ喧囂《けんがう》は我等を迎へたり。劇場あり。軒燈籠懸け列ねて、彩色せる繪看板を掲げたり。輕技《かるわざ》の家あり。その群の一家族高き棚の上に立ちて客を招けり。婦《をみな》は叫び、夫は喇叭《らつぱ》吹き、子は背後より長き鞭を揮《ふる》ひて爺孃《やぢやう》を亂打し、その脚下には小き馬の後脚にて立ちて、前に開ける簿册を讀む眞似したるあり。一人あり。水夫の環坐せる中央に立ちて、兩臂《りやうひぢ》を振りて歌へり。是れ即興詩人なり。一翁あり。卷を開いて高く誦すれば、聽衆手を拍ちて賞讚す。是れ「オランドオ、フリオゾ」を讀めるなり。(譯者云。わが太平記よみの類《たぐひ》なるべし。讀む所はアリオストオ[#「アリオストオ」に傍線]の詩なり。)
夫人は忽ちヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]と呼びぬ
前へ
次へ
全169ページ中84ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
アンデルセン ハンス・クリスチャン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング