ト土なり。かへす/″\も嬉しきは再び斯《この》土に來しことぞと云ふ。友はわれと同じく枝なる果に接吻し、又目に喜の涙を浮べて、我|項《うなじ》を抱き我額に接吻せり。
 火は火を呼び、情は情を呼ぶ。われは最早此舊相識に對して、胸臆を開き緘※[#「口+黒」、第4水準2−4−36]《かんもく》を破ることを禁じ得ざりき。われは我が羅馬に在りての遭遇を語りて、高くアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の名を唱へたり。人を傷けて亡命せしこと、身を賊寨《ぞくさい》に托せしことより、怪しき媼《おうな》の我を救ひしことまで、一も忌み避くることなかりき。友の手は牢《かた》く我手を握りて、友の眼光《まなざし》は深く我眼底を照せり。
 忽ち啜泣《すゝりなき》の聲の背後《うしろ》に起るあり。背後はキケロ[#「キケロ」に傍線]の温泉《いでゆ》の入口にて、月桂《ラウレオ》朱欒《ザボン》の枝繁りあひたれば、われは始より人あるべしとは思ひ掛けざりしなり。枝推し分けて見れば、彼温泉の入口なる石に踞して泣く女あり。そは前《さき》の拿破里の夫人なりき。
 夫人は涙の顏を擧げて我に謝して云ふやう。我が無禮《なめ》なるを恕《ゆる》し給へ。君等の歩み寄り給ひしときは、われ早くこゝに坐して涼を貪《むさぼ》り居たり。御物語の祕事《ひめごと》と覺しきには、後に心付きしが、せんすべなかりしなり。されど哀れ深き御物語を聞きつとこそ思ひまゐらすれ、人に告ぐべきにはあらねば、惡しく思ひ取り給ふなといふ。われは間《ま》の惡さを忍びて夫人に禮を施し、友と共に踵《くびす》を旋《めぐら》したり。友は我を慰めて云ふやう。彼夫人の期せずして我等と物言ひしは、或は他日我等に利あらんも知るべからず。斯く言へば土耳格《トルコ》人めきたれど、われは運命論者なり。且汝の語りし所は國家の祕密などにはあらず。誰が心中の帳簿にも、此種の暗黒文字數葉なきことはあらざるべし。彼夫人の汝が言を聞きて泣きしは、或は他人の語中より自家の閲歴を聽き出し、他人の杯酒もて自家の磊塊《らいくわい》に澆《そゝ》ぎしにはあらずや。涙は己れのために出で易く、人のために出で難きこと、なべての情なればといひき。
 我等は再び車に乘り途《と》に上りぬ。四邊《あたり》の草木はいよ/\茂れり。車に近き庭園、田圃の境には、多く蘆薈《ろくわい》を栽《う》ゑたるが、その高さ人の頭を凌げり。處々の垂楊の枝は低《た》れて地に曳かんとせり。
 日の夕《ゆふべ》にガリリヤノ[#「ガリリヤノ」に二重傍線]の河を渡りぬ。古のミンツルネエ[#「ミンツルネエ」に二重傍線](羅馬の殖民地)は此岸にありしなり。我好古の眼《まなこ》もて視るときは、是れ猶|古《いにしへ》のリリス[#「リリス」に二重傍線]河にして、其水は蘆荻《ろてき》叢間の黄濁流をなし、敗將マリウス[#「マリウス」に傍線]が殘忍なるズルラ[#「ズルラ」に傍線]に追躡《ついせふ》せられて身を此岸に濳めしも、昨《きのふ》の猶《ごと》くぞおもはるゝ。(紀元前八十八年ズルラ[#「ズルラ」に傍線]政柄《せいへい》を得つる時、マリウス[#「マリウス」に傍線]これと兵馬の權を爭ふ。所謂第一|内訌《ないこう》是なり。マリウス[#「マリウス」に傍線]敗れて此河岸に濳み、萬死を出で一生を得て、難を亞弗利加《アフリカ》に避けしが、その翌年土を捲きて重ねて來るや、羅馬府を陷いれ、兵を縱《はな》ちて殺戮《さつりく》せしむること五日間なりき。)此よりサンタガタ[#「サンタガタ」に二重傍線]までは、まだ若干の路程あるに、闇《やみ》は漸く我等の車を罩《つゝ》まんとす。馭者は畜生《マレデツトオ》を連呼して、鞭策《べんさく》亂下せり。拿破里《ナポリ》の夫人は心もとながりて、頻りに車窓を覗き、賊の來りて、行李を括《くゝ》り付けたる索《さく》を截《き》らんを恐るゝさまなり。われ等は纔《わづか》に前面に火光あるを認めて、互に相慶したり。須臾《しゆゆ》にして車はサンタガタ[#「サンタガタ」に二重傍線]に抵《いた》りぬ。
 晩餐の間、夫人は何事をか思ふさまにて、いともの靜なりき。さるをその目の斷えずわが方に注げるをば、われ心に訝《いぶか》りぬ。翌朝車の出づべき期《ご》に迫りて、われは一盞の珈琲《カツフエ》を喫せんために、食堂に下りしに、堂には夫人只一人在りき。優しく我を迎へて詞を掛け、われを惡しく思ひ給ふな、總べて思ひ設けぬ事なりしなればと云ふ。われは夫人を慰めて、否、あしき人に聞かれたりとは思ひ候はず、言はであるべき事をば言ひ給ふべき方ならねばと答へき。夫人。さなり。おん身はまだ我をよくも識り給はず。或は我を識り給ふ期《ご》あらんも知るべからず。おん身は知らぬ大都會に往き給ふといへば、かしこにて一度我家におとづれ、我夫と相識《さうしき》になり給はんかた
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