ヘ一人だになし。かく膽太く羅馬拿破里の間を往來《ゆきき》する女はあらぬならん、奈何《いかに》などいへり。
 夫人は食堂の長椅子に、はたと身を倚《よ》せ掛け、いたく倦《うん》じたる體《てい》にて、圓く肥えたる手もて頬を支へ、目を食單《もくろく》に注げり。「ブロデツトオ、チポレツタ、フアジヲロ」とか。わが汁を嫌ふをば、こゝにても早く知れるならん。否々、わが「アムボンポアン」の「カステロ、デ、ロヲオ」の如くならんは、堪へがたかるべし。「アニメルレ、ドオラテ」に「フイノツキイ」些計《ちとばかり》あらば足りなん。まことの晩餐をばサンタガタ[#「サンタガタ」に二重傍線]にてしたゝむべし。こゝは早く拿破里《ナポリ》の風の吹くが快きなり。「ベルラ、ナポリ」と呼びつゝ、夫人は外套の紐を解き、苑《その》に向へる廊《わたどの》の扉を開き、もろ手を擴げて呼吸したり。(此詞の中には食單の品目に見えたる料理の稱多し。「ブロデツトオ」は卵の※[#「穀」の「禾」に代えて「黄」、78−上段−27]《きみ》を入れたる稀《うす》き肉羹汁《スウプ》、「チポレツタ」は葱、「フアジヲロ」は豆、「カステロ、デ、ロヲオ」は卵もて製したる菓子、「アニメルレ、ドオラテ」は犢《こうし》の臟腑の料理、「フイノツキイ」は香料なり。「アムボンポアン」は肥胖《ひはん》、「ベルラ、ナポリ」は美しき拿破里といふ程の事なり。)
 われは友を顧みて、拿破里は最早こゝより見ゆるかと問ひしに、友は笑ひて、まだ見えず、されどヘスペリア[#「ヘスペリア」に二重傍線]は見ゆるなり、アルミダ[#「アルミダ」に傍線]の奇《く》しき園《その》は見ゆるなりと答へき。(譯者云。ヘスペリア[#「ヘスペリア」に二重傍線]は希臘《ギリシア》語、晩國、西國の義なり。或は伊太利を斥《さ》して言ひ、或は西班牙《スパニア》を斥して言ふ。されどこゝには、希臘神話にヘスペリア[#「ヘスペリア」に傍線]といふ女神ありて、西方の林檎園を守れるを謂ふならん。アルミダ[#「アルミダ」に傍線]はタツソオ[#「タツソオ」に傍線]が詩中の妖艷なる王女なり。基督教徒を惑はし、丈夫《ますらを》リナルドオ[#「リナルドオ」に傍線]をアンチオヒア[#「アンチオヒア」に二重傍線]の園に誘ひて、酒色に溺れしむ。フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]が詞の意は、山水を問ふこと勿れ、彼美人を見よとなり。)
 友と廊に出でゝ望むに、その景色の好きこと、想像の能く及ぶ所にあらず。脚の下には柑子《かうじ》、檸檬《リモネ》などの果樹の林あり。黄金いろしたる實の重きがために、枝は殆ど地に低《た》れんとす。丈高き針葉樹の園を限りたるさまは、北伊太利の柳と相似たり。この木立の極めて黒きは、これに接したる末遙なる海原《うなばら》の極めて明《あか》ければなり。園の一邊《かたほとり》の石垣の方を見れば、寄せ來る波は古の神祠|温泉《いでゆ》の址《あと》を打てり。白帆懸けたる大舟小舟は、徐《しづ》かに高き家の軒を並べたるガエタ[#「ガエタ」に二重傍線]の灣《いりえ》に進み入る。(原註。ガエタ[#「ガエタ」に二重傍線]はカエタ[#「カエタ」に傍線]より出でたる名なりといふ。是れヰルギリウス[#「ヰルギリウス」に傍線]が詩の主人公エネエアス[#「エネエアス」に傍線]が乳媼《めのと》の名にして、此港を以て其埋骨の地となせるなり。)灣《いりえ》の背後《うしろ》に一山の聳ゆるありて、その嶺には古壘壁を見る。友は左の方を指してヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]の烟を見よといふ。眸を轉じて望めば、火山の輪廓は一抹の輕雲の如く、美しき青海原の上に現れたり。われは小兒の情もて此景物を迎へ、心の裡《うち》に名状すべからざる喜を覺えき。
 われ等は相携へて果園に下りぬ。われは枝上の果《このみ》に接吻して、又地に墜ちたるを拾ひ、毬《まり》の如くに玩《もてあそ》びたり。友の云ふやう。げに伊太利はめでたき國なる哉。北方の故郷に在りし間、常に我|懷《おもひ》に往來《ゆきき》せしものはこの景なり、この情なり。嘗て夢裡に呑みつる霞は、今うつゝに吸ふ霞なり。故郷の牧を望みては、此|橄欖《オリワ》の林を思ひ、故郷の林檎を見ては、此|柑子《かうじ》を思ひき。されど北海の緑なる波は、終に地中海の水の藍碧なるに似ず、北國の低き空は、終に伊太利の天《そら》の光彩あるに似ざりき。汝はわが伊太利を戀ひし情のいかに切なりしかを知るか。一たび淨土を去りたるものゝ不幸は、嘗て淨土を見ざりしものゝ不幸より甚し。我故郷なる※[#「王+連」、第3水準1−88−24]馬《デンマルク》は美ならざるに非ず。山毛欅《ぶな》の林の鬱として空を限るあり。東海の水の闊《ひろ》くして天に連《つらな》るあり。されど是れ皆|猶《なほ》人界の美のみ。伊太利は天國なり、
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