B途上一微物に遭ふごとに、友はその詩趣を發揮して我心を慰めたり。この憂き旅の道づれには、フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]こそげに願ひても無かるべき人物なりしなれ。
友は往手《ゆくて》を指ざしていふやう。かしこなるが我が懷かしき穢《きたな》きイトリ[#「イトリ」に二重傍線]の小都會なり。汝は故里の我が居る町をいかなる處とかおもへる。街衢《がいく》の地割の井然《せいぜん》たるは、幾何學の圖を披《ひら》きたる如く、軒は同じく出で、梯《はしご》は同じく高く、家々の並びたるさまは、檢閲のために列をなしたる兵卒に殊ならず。清潔なることはいかにも清潔なり。されどかくては復た何の趣をかなさん。イトリ[#「イトリ」に二重傍線]に入りて灰色に汚れたる家々の壁を仰ぎ見よ。その窓には太《はなは》だ高きあり、太だ低きあり、大なるあり、小なるあり。家によりては異樣に高き梯の巓《いたゞき》に門口を開けるあり。その内を望めば、※[#「糸+樔のつくり」、第4水準2−84−55]車《いとぐるま》の前に坐せる老女あり。側なる石垣の上よりは黄に熟したる木の實の重げに生《な》りたる枝さし出でたるべし。この參差《しんし》錯落《さくらく》たる趣ありてこそ、好畫圖とはなるべきなれといふ。
車のイトリ[#「イトリ」に二重傍線]に入らんとするとき、同じく乘れる一客は、これフラア・ヂヤヲロ[#「フラア・ヂヤヲロ」に傍線]の故郷なりと叫びぬ。この小都會は削立《さくりつ》千尺の大岩石の上にあり。これを貫ける街道は僅に一車を行《や》るべし。こゝ等の家は、概《おほむ》ね皆|平家《ひらや》に窓を穿《うが》つことなく、その代りには戸口を大いにしたり。戸の内なる泣く小兒、笑ふ女子は、皆|襤褸《つゞれ》を身に纏ひて、旅人の過ぐるごとに、手を伸べ錢を索《もと》む。馬の足掻《あがき》の早きときは、窓より首を出すべからず。石垣に觸るゝ虞《おそれ》あればなり。時ありて出窓《でまど》の下を過ぐるときは、隧道《すゐだう》の中を行くが如し。唯《た》だ黒烟の戸窓《とまど》より溢れて、壁に沿ひて上るを見るのみ。
閭門《りよもん》を出づるに及びて、友は手を拍《う》ちつゝ、美なる都會かなと叫びぬ。車主《エツツリノ》は顧みて、否、盜人《ぬすびと》の巣なり、警察の累《わずらひ》絶ゆる間なければとて、一たび市民の半を山のあなたに徙《うつ》し、その跡へは餘所より移住せしめしことあり、されどそれさへ雜草の叢《くさむら》に穀物の種を蒔きしに似て、何の利益もあらで止みぬ、兎角は貧の上の事にて、貧人の根絶やし出來ねば、無駄なるべしと、諭《さと》し顏に物語りぬ。
げにも羅馬とナポリ[#「ナポリ」に二重傍線]との間ほど、劫掠《ひはぎ》に便よきところはあらざるべし。奧の知られぬ橄欖《オリワ》の蒼林、所々に開ける自然の洞窟より、昔がたりの一目の巨人が築きぬといふ長壁のなごりまで、いづれか身を隱し人を覗ふに宜《よろ》しからざる。
友は蔦蘿《つたかづら》の底に埋れたる一|堆《たい》の石を指ざして、キケロ[#「キケロ」に傍線]の墓を見よといへり。是れ無慙《むざん》なる刺客《せきかく》の劍の羅馬第一の辯士の舌を默《もだ》せしめし處なりき。(キケロ[#「キケロ」に傍線]の別墅《べつしよ》はこゝを距ること遠からざるフオルミエ[#「フオルミエ」に二重傍線]にあり。該撤《ケエザル》歿後、アントニウス[#「アントニウス」に傍線]一派の刺客キケロ[#「キケロ」に傍線]を刺さんと欲す。キケロ[#「キケロ」に傍線]身を以て逃れ、將《まさ》にブルツス[#「ブルツス」に傍線]の陣に投ぜんとして、遂に刺客の及ぶところとなりぬ。時に西暦前四十三年十二月七日なり。)友は語をつぎて、車主はこたびもモラ、ヂ、ガエタ[#「モラ、ヂ、ガエタ」に二重傍線](即ち昔のフオルミエ[#「フオルミエ」に二重傍線])の別墅に車を停むるならん、今は酒店となりて、眺望好きがために人に知らるといひぬ。
旅の貴婦人
山嶽は秀で、草木は茂れり。車は月桂《ラウレオ》の街※[#「木+越」、第3水準1−86−11]《なみき》を過ぎて客舍の門に抵《いた》りぬ。薦巾《セルヰエツト》を肘《ひぢ》にしたる房奴《カメリエリ》は客を迎へて、盆栽|花卉《くわき》もて飾れる闊《ひろ》き階《きざはし》の下《もと》に立てり。車を下る客の中に、稍※[#二の字点、1−2−22]肥えたる一夫人あるを見て進み近づき、扶《たす》けて下らしめ、ことさらに挨拶す。相識の客なればなるべし。夫人の顏色は太《はなは》だ美し。その瞳子《ひとみ》の漆《うるし》の如きにて、拿破里《ナポリ》うまれの人なるを知りぬ。
われ等の衆人と共に、門口に近き食堂に入る時、夫人は房奴に語りぬ。こたびの道づれは婢《はしため》一人のみ。例の男仲間
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