烽オろきを見給へと指ざし示せり。その詞未だ畢《をは》らざるに、洞の前に横へたる束藁《たばねわら》は取り除《の》けられたり。山羊は二頭づゝの列をなして洞より出で、山の上に登りゆけり。殿《しんがり》には一人の童子あり。尖りたる帽を紐もて結び、褐色《かちいろ》の短き外套を纏ひ、足には汚れたる韈《くつした》はきて、鞋《わらぢ》を括《くゝ》り付けたり。童は洞の上なる巖頭に歩を停めて、我等の群を見下せり。
 忽ち車主《エツツリノ》の一聲の因業《マレデツトオ》を叫びて、我等に馳せ近づくを見き。手形の中、不明なるもの一枚ありとの事なり。われはその一枚の必ず我劵なるべきを思ひて、滿面に紅を潮《さ》したり。畫工は劵の惡しきにはあらず、吏のえ讀まぬなるべしと笑ひぬ。
 我等は車主の後につきて、彼塔の一つに上りゆき戸を排して一堂に入りて見るに、卓上に紙を伸べ、四五人の匍匐《はらば》ふ如くにその上に俯したるあり。この大官人中の大官人と覺しく、豪《えら》さうなる一人頭を擡《もた》げて、フレデリツク[#「フレデリツク」に傍線]とは誰ぞと糺問《きうもん》せり。畫工進み出でゝ、御免なされよ、それは小生《わたくし》の名にて、伊太利にていふフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]なりと答ふ。吏。然らばフレデリツク・シイズ[#「フレデリツク・シイズ」に傍線]とはそこなるか。畫工御免なされよ。それは劵の上の端に記されたる我國王の御名なるべし。吏。左樣か。(と謦咳《せきばらひ》一つして讀み上ぐるやう。)「フレデリツク、シイズ、パアル、ラ、グラアス、ド、ヂヨオ、ロア、ド、ダンマルク、デ、ワンダル、デ、ゴオト。」さてはそこは「ワンダル」なるか。「ワンダル」とは近ごろ聞かぬ野蠻人の名ならずや。畫工。いかにも野蠻人なれば、こたび開化せんために伊太利には來たるなり。その下なるが我名にて、矢張王の名と同じきフレデリツク[#「フレデリツク」に傍線]なり、フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]なり。(「ワンダル」は二千年前の日耳曼《ゲルマン》種の名なり。文に天祐に依りて※[#「王+連」、第3水準1−88−24]馬《デンマルク》の王、「ワンダル」、「ゴオツ」諸族の王などゝ記するは、彼國の舊例なり。)書記の一人語を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]みて、英吉利人なりしよと云へば、外の一人|冷笑《あざわら》ひて、君はいづれの國をも同じやうに視給ふか、劵面にも北方より來しことを記せり、無論|魯西亞《ロシア》領なりといふ。
 フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]、※[#「王+連」、第3水準1−88−24]馬《デンマルク》、この數語はわが懷しき記念を喚び起したり。※[#「王+連」、第3水準1−88−24]馬の畫工フエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]とは、むかし我母の家に宿り居たる人なり、我を窟墓《カタコムバ》に伴ひし人なり。我がために畫かき、我に銀※[#「金+表」、76−下段−22]《ぎんどけい》を貽《おく》りし人なり。
 關守る兵卒は手形に疑はしき廉《かど》なしと言渡しつ。この宣告の早かりしにはフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]の私《ひそ》かに贈りし「パオロ」一枚の效驗もありしなるべし。塔を下るとき、われフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]に名謁《なの》りしに、この人は想ふにたがはぬ舊相識にて、さては君は可哀《かはゆ》き小アントニオ[#「アントニオ」に傍線]なりしかと云ひて我手を握りたり。車に上るとき、人に請ひて席を換へ、われとフエデリゴ[#「フエデリゴ」に傍線]とは膝を交へて坐し、再び手を握りて笑ひ興じたり。
 われは相別れてより後の身の上をつゞまやかに物語りぬ。そはドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]が家にありしこと、羅馬に返りて學校に入りしことなどにて、それより後をばすべて省きつるなり。我は詞を改めて、さてこれよりはナポリ[#「ナポリ」に二重傍線]へ往かんとすと告げたり。
 むかし畫工と最後に相見たるは、カムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の野にての事なりき。その時畫工は早晩一たび我を羅馬に迎へんと約したり。畫工は猶當時の言を記し居りて、我にその約を履《ふ》まざりしを謝したり。君に別れて羅馬に歸りしに、故郷の音信《おとづれ》ありて、直ちに北國へ旅立つことゝなりぬ。その後數年の間は、故里《ふるさと》にありしが、伊太利の戀しさは始終忘れがたく、このたびはいよ/\思ひ定めて再遊の途に上りぬ。こゝはわが心の故郷なり。色彩あり、形相《ぎやうさう》あるは、伊太利の山河のみなり。わが曾遊の地に來たる樂しさをば、君もおもひ遣り給へといふ。
 彼問ひ我答ふる間に、路程の幾何《いくばく》をか過ぎけん。フオンヂイ[#「フオンヂイ」に二重傍線]の税關の煩ひをも、我心には覺えざりき
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