の人の心鈍く氣長き爲に、旅人の迷惑いかばかりぞと罵りしが、やうやく思ひあきらめたりと覺しく、大なる紛※[#「巾+兌」、75−中段−15]《てふき》を結びて頭巾となし、兩の耳も隱るゝやうに被り、眼を閉ぢて默坐せり。馭者の語るを聞けば、この英人は伊太利に來てより十日あまりなるべし。北伊太利、中伊太利をばことごとく見果てつ。羅馬をば一日に看盡したり。此より拿破里にゆきて、ヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]に登り、汽船にて馬耳塞《マルセイユ》に渡り、南佛蘭西を遊歴すべしとなり。士兵八騎はいかめしく物具して至れり。馭者は鞭を揮《ふる》へり。馬も車も、忽ち黄なる岩壁にそひたる閭門《りよもん》を過ぎ去りぬ。
一故人
客舍の前にはたけ矮《ひく》く逞《たく》ましげなる男ありて、車の去るを見送りたるが、手に持てる鞭を揮ひて鳴らし、あたりの人に向ひていふやう。護衞はいかに嚴めしくとも、兵器《うちもの》の數はいかに多くとも、我客人となりて往くことの安穩なるには若《し》かじ。英吉利人ほど心忙しきものはなし。馬はいつも驅歩《かけあし》なり。氣まぐれなる人柄かなと嘲《あざ》み笑へり。われこれに聲かけて、おん身の車には既に幾位《いくたり》の客人をか得給ひしと問へば、隅ごとに眞心《まごころ》一つなれば、四人は早く備りたり、されど二輪車の中は未《まだ》一人のみなり。ナポリ[#「ナポリ」に二重傍線]へと志し給はゞ、明後日は旭日《あさひ》のまだサンテルモ[#「サンテルモ」に二重傍線]城(ナポリ[#「ナポリ」に二重傍線]府を横斷する丘陵あり、其|巓《いたゞき》の城を「カステル、サンテルモ」といふ)に刺さぬ間に送り屆け參らすべしと答ふ。爲換《かはせ》ありて現金なき我がためには、此勸めのいと嬉しく、談合は忽ちに纏まりぬ。(原註。伊太利の旅を知らぬ人のために註すべし。彼國の車主《エツツリノ》は例として前金を受けず、途中の旅籠《はたご》一切をまかなひくれたる上、小使錢さへ客に交付《わた》し、安着の後決算するなり。)
車主は客人も零錢《こぜに》の御用あるべければとて、五「パオリ」の銀貨一枚|撮《つま》み出して我に渡しつ。われ。さらば食卓の好き座席と臥床《ふしど》とを頼むなり。明日は滯《とゞこほり》なく車を出してよ。車主。勿論にこそ候へ。聖《サン》アントニオ[#「アントニオ」に傍線]と我馬との思召だにくるはずば、正三時には出で立つべし。されど明日はむづかしき日にて候ふ。税關の調べ二度、手形の改め三度あるべし。さらば、平かに憩はせ給へとて、車主は手を帽庇《ばうひ》に加へ、輕く頷きて去りぬ。
誘はれたる部屋は海に向へり。折しも風輕く起りて、窓の下には長き形したる波の寄ては又返すを見る。こゝの景色はカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の景色とは全く殊なるに、いかなれば吾胸中には、少時の住家の事、ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]の媼《おうな》の事など浮び出でけん。世の中は廣けれど、眞ごゝろより我上を氣遣ひ呉るゝ人、彼媼の如きはあらじ。近きところに住みながら、屡※[#二の字点、1−2−22]往きて訪ふことだになかりしは、我と我身の怪まるゝばかりなり。彼フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君の如きは、我を愛し給はざるにあらねど、凡そ恩をきるものと恩をきするものとの間には、未だ報恩の志を果さゞる限は、大なる溝渠ありて、縱《たと》ひ優しき情《なさけ》の蔓草の生ひまつはりて、これを掩《おほ》ふことあらんも、能く全くこれを填《うづ》むることなし。漸くにして、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]とアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]との上に想ひ及ぶとき、われは頬《ほ》の邊の沾《うるほ》ふを覺えき。涙にやありし、又窓の下なる石垣に中《あた》りし波の碎け散りて面に濺《そゝ》ぎたるにやありし。
翌日は夜のまだ明けぬに、車に乘りてテルラチナ[#「テルラチナ」に二重傍線]を立ちぬ。領分境に至りて、手形改めあるべしとて、人々車を下りぬ。此の時始めて同行の人を熟視したるに、齡《よはひ》三十あまりと覺しく、髮の色|明《あか》く瞳子《ひとみ》青き男我目にとまれり。何處にてか見たりけん、心におぼえある顏なり。その詞を聞けば外國音《とつくにおん》なり。
手形は多く外國文《とつくにおん》もて認《したゝ》めたるに、境守る兵士は故里《ふるさと》の語だによくは知らねば、檢閲は甚しく手間取りたり。瞳子青き男は帖《てふ》一つ取出でゝ、あたりの景色を寫せり。げに街道に据ゑたる關の、上に二三の尖《とが》れる塔を戴きたる、その側なる天然の洞穴、遠景たるべき山腹の村落、皆好畫料とぞ思はるゝ。
わが背後《うしろ》よりさし覗きし時、畫工はわれを顧みて、あの大なる洞《ほら》の中なる山羊《やぎ》の群のお
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