X1−84]《かゝ》げ去られたり。時はまだ二月末なれど、日はやゝ暑しと覺ゆる程に照りかゞやきぬ。水牛は高草の間に群れり。若駒の馳せ狂ひて、後脚《とも》もて水を蹴るときは、飛沫高く迸《ほとばし》り上れり。その疾《と》く捷《はや》き運動を、畫かく人に見せばやとぞ覺ゆる。左の方なる原中に一道の烟の大なる柱の如く騰《あが》れるあり。こはこの地の習にて、牧者どものおのが小屋のめぐりなる野を燒きて、瘴氣《しやうき》を拂ふなるべし。
 途にて農夫に逢ひぬ。その痩せたる姿、黄ばみし面は、あたりの草木のすくやかに生ひ立てると表裏《うらうへ》にて、冢《つか》を出でたる枯骨にも譬へつべし。驪《くろうま》に騎《の》りて、手に長き槍めきたるものを執れるが、こは水牛を率《ゐ》て返るとき、そは驅り集むる具なりとぞ。げにこゝらの水牛の多きことその幾何《いくばく》といふことを知らず。草むらを見もてゆけば、斗《はか》らず黒く醜き頭と光る眼とを認め得て、こゝにも臥したるよと驚くこと間々あり。
 道に沿ひて處々に郵亭を設けたり。その造りざま、小きながら三層四層ならぬはなし。こは瘴氣《しやうき》を恐るればなり。亭は皆白壁なれど、礎《いしずゑ》より簷端《のきば》迄、緑いろなる黴《かび》隙間なく生ひたり。人も家も、渾《す》べて腐朽の色をあらはして、日暖に草緑なる四邊《あたり》の景と相容れざるものゝ如し。わが病める心はこれを見て、つく/″\人生の頼みがたきを感じたり。
「アヱ、マリア」の鐘響くに先だつこと一時ばかりにして、澤地のはづれに出でぬ。山脈の黄なる巖《いはほ》は漸く迫り近づきて、南國の風光に富めるテルラチナ[#「テルラチナ」に二重傍線]の市は、忽ち我前に横りぬ[#「横りぬ」は底本では「花りぬ」]。三株の棕櫚樹《しゆろのき》高く道の傍に立てるが、その實は累々として葉の間に垂れたり。山腹の果圃《くわほ》は黄なる斑紋ある青氈《あをがも》に似たり。その斑紋は檸檬《リモネ》、柑子《かうじ》などの枝たわむ程みのりたるなり。一農家の前に熟し落ちたる檸檬を堆《うづたか》く積みたるを見るに、餘所にて栗など搖りおとして掃き寄するさまと殊なることなし。岩石のはざまよりは、青き迷迭香《まんねんらふ》(ロスマリヌス)、赤き紫羅欄花《あらせいとう》など生《お》ひ上《のぼ》りたるが、その巓《いたゞき》にはチウダレイクス[#「チウダレイクス」に傍線]が廢城の殘壁ありて、猶|巍々《ぎゞ》として雲を凌《しの》げり。(譯者云。東「ゴトネス」族の王なり。西暦四百八十九年東羅馬帝の命を奉じて敵を破り、伊太利を領す。)
 我心は景色に撲《う》たれて夢みる如くなりぬ。忽ち海の我前に横はるに逢ひぬ。われは始て海を見つるなり、始て地中海を見つるなり。水は天に連りて一色の琉璃《るり》をなせり。島嶼《たうしよ》の碁布《きふ》したるは、空に漂ふ雲に似たり。地平線に近きところに、一條の烟立ちのぼれるは、ヱズヰオ[#「ヱズヰオ」に二重傍線]の山(モンテ、ヱズヰオ)なるべし。沖の方は平なること鏡の如きに、岸邊には青く透きとほりたる波寄せたり。その岩に觸るゝや、鼓《つゞみ》の如き音立てゝぞ碎くる。われは覺えず歩を駐《とゞ》めたり。わが滿身の鮮血は蕩《とろ》け散りて氣となり、この天この水と同化し去らんと欲す。われは小兒の如く啼きて、涙は兩頬に垂れたり。市に大なる白堊《しろつち》の屋ありて、波はその礎《いしずゑ》を打てり。下の一層は街に面したる大弓道をなして、その中には數輛の車を並べ立てたり。こはテルラチナ[#「テルラチナ」に二重傍線]の驛舍にして、羅馬《ロオマ》拿破里《ナポリ》の間第一と稱へらる。
 鞭聲《べんせい》の反響に、近き山の岩壁を動かして、駟馬《しば》の車を驛舍の前に駐《とゞ》むるものあり。車座の背後《うしろ》には、兵器《うちもの》を執りたる從卒|數人《すにん》乘りたり。車中の客を見れば、痩せて色蒼き男の斑《まだら》に染めたる寢衣《ねまき》を纏ひて、懶《ものう》げに倚《よ》り坐せるなり。馭者は疾く下りて、又二たび三たび其鞭を鳴し、直ちに馬を續《つ》ぎ替へたり。さて護衞の士兵ありやと問へば、十五分間には揃ふべしと答へぬ。こはゆくての山路に、フラア・ヂヤヲロ[#「フラア・ヂヤヲロ」に傍線]、デ・チエザレ[#「デ・チエザレ」に傍線]の流を汲むものありとて、當時こゝを過ぐる旅客の雇ふものとぞ聞えし。(前者は伊太利大盜の名にして、同胞魔君の義なり。實の氏名をミケレ・ペツツア[#「ミケレ・ペツツア」に傍線]といふ。千七百九十九年|夥伴《なかま》を率《ひき》ゐて拿破里王に屬し、佛兵と戰ひて功あり。官職を授けらる。後佛兵のために擒《とりこ》にせられて、千八百六年拿破里に斬首せらる。後者も亦名ある盜なり。)客は英吉利語に伊太利語まぜて、此
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