《イギリス》の老婦人ありて、年若き男女と共に、拿破里《ナポリ》へ往かんと、此山の麓を過ぎぬ。我等は此一群を馬車より拉《ひ》き卸《おろ》したり。我等は三人を擒《とりこ》にして、財物を掠《かす》め取りつ。少女《をとめ》は若き男の許嫁《いひなづけ》の婦《よめ》なりしならん。顏ばせつやゝかに、目なざし涼しかりき。男をば木に括《くゝ》りたり。女は猶處子なりき。われはサヱルリ[#「サヱルリ」に傍線]侯に扮することを得たり。賠《つぐの》ひの金屆きて一群の山を下りし時、少女の顏は色|褪《あ》せて、目は光鈍りたりき。深山は蔭多きけにやあらん。
この物語にわれは覺えず面をそむけしかば、若者は分疏《いひわけ》らしく詞を添へて、されど新教の女なりき、惡魔の子なりきとつぶやきぬ。われ等二人はしばし語なくして相|對《むか》へり。若者は今一つ讀み給へと乞ひぬ。われは喜びて又尊き書を開きつ。
封傳
夕ぐれにフルヰア[#「フルヰア」に傍線]の媼歸りて、われに一裹《ひとつゝみ》の文書《もんじよ》を遞與《わた》して云ふやう。山々は濕衾《ぬれぶすま》を被《かつ》きたるぞ。巣立するには、好き折なり。往方《ゆくて》は遙なるに、禿げたる巖の面《おもて》には麪包《パン》の木生ふることなし。腹よく拵へよといふ。若者のかひ/″\しく立ち働きて、忙しげに供ふる饌《ぜん》に、われは言はるゝ儘に飢を凌《しの》ぎつ。媼は古き外套を肩に被き、手を把《と》りて暗き廊道《わたどのみち》を引き出でつゝ云ふやう。我雛鷲よ。疆《さかひ》守《も》る兵《つはもの》も汝が翼を遮ることあるまじきぞ。その一裹は尊き神符にて、また打出の小槌なり。おのが寶を掘り出さんまで、事|闕《か》くことはあらじ。黄金も出づべし、白銀《しろかね》も出づべしといふ。媼は痩せたる臂《ひぢ》さし伸べて、洞門を掩《おほ》へる蔦蘿《つたかづら》の帳《とばり》の如くなるを推し開くに、外面《とのも》は暗夜なりき。濕りたる濃き霧は四方の山岳を繞《めぐ》れり。媼の道なき處を疾《と》く奔《はし》るに、われはその外套の端を握りて、やう/\隨ひ行きぬ。木立草むらを左右に看過して、媼は魔神の如くわれを導き去りぬ。
數時の後挾き山の峽《かひ》に出でぬ。こゝに伊太利《イタリア》の澤池にめづらしからぬ藁小屋一つあり。籘《とう》に藁まぜて、棟より地まで葺《ふ》き下せり。壁といふものなし。燈の光は低き戸の隙間洩りたり。媼は我を延《ひ》きて進み入りぬ。小屋の裡《うち》は譬へば大なる蜂窩《はちのす》の如くにして、一方口より出で兼ねたる烟は、あたりの物を殘なく眞黒《まくろ》に染めたり。梁柱《うつばり》はいふもさらなり、籘の一條《ひとすぢ》だに漆《うるし》の如く光らざるものなし。間《ま》の中央に、長さ二三尺、幅これに半ばしたる甎爐《せんろ》あり。炊《かし》ぐも煖むるも、皆こゝに火焚きてなすなるべし。炭と灰とはあたりに散りぼひたり。奧に孔ありて小き間につゞきたるが、そのさま芋塊に小芋の附きたる如し。その中には女子一人|臥《こや》して、二三人の小兒はそのめぐりに横《よこたは》れり。隅の方に立てる驢《うさぎうま》は、頭を延べて客を見たり。主人なるべし、腰に山羊《やぎ》の皮を卷き、上半身は殆ど赤條々《あかはだか》なる老夫は、起ちて媼の手に接吻し、一語を交へずして羊の皮をはふり、驢を門口に率《ひ》き出し、手まねして我に騎《の》れと教へぬ。媼は我に向ひて、カムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の馬に勝《まさ》るべき足どりの駒なり、幸運の門出は今ぞとさゝやきぬ。われはその志の嬉しければ、媼の手に接吻せんとせしに、媼は肩に手を掛け、額髮おし上げて、冷なる唇を我額に當てたり。
老夫は鞭を驢《うさぎうま》に加へて、おのれもひたと引き添ひつゝ、暗き徑《みち》を馳《は》せ出せり。われは猶媼の一たび手もて揮《さしまね》くを見しが、その姿忽ち重《かさな》る梢に隱れぬ。心細さに馬夫《まご》に物言ひ掛くれば、聞き分き難き聲立てゝ、指を唇に加へたり。さては※[#「やまいだれ+音」、第3水準1−88−52]《おし》なるよと思ひぬ。いよ/\心もとなくて媼の授けし裹《つゝ》み引き出すに、種々の書《かき》ものありと覺ゆれど、夜暗うして一字だに見え分かず。兎角して曉がたになりぬ。路は山の脊に出でゝ、裸なる巖には些《すこし》許りなる蔓草《つるくさ》纏ひ、灰色を帶びて緑なる亞爾鮮《アルテミジア》の葉は朝風に香を途りぬ。空には星猶輝けり。脚下には白霧の遠く漂へるを見る。是れ大澤《たいたく》の地なり。此澤はアルバノ[#「アルバノ」に二重傍線]山下に始まりて、北ヱルレトリ[#「ヱルレトリ」に二重傍線]より南テルラチナ[#「テルラチナ」に二重傍線]に至る。馬夫のしばし歩を留めし時、われは仰いで青空の漸
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