A一語をも出さで、刀を拔きて淺くその膚を截《き》りたり。媼はその血に筆を染めて我にわたし、「往《ゆく》拿破里《ナポリ》」と書して名を署せしめて云ふ。好し好し、法皇の封傳《てがた》に劣らぬものぞとて、懷にをさめつ。傍なる一人の男、その紙何の用にか立つべきとつぶやきしに、媼目を見張りて、蛆《うぢ》のもの言はんとするにや、大いなる足の蹂躙《ふみにじ》らんを避けよといふ。コスモ[#「コスモ」に傍線]は首《かうべ》を低《た》れて不敢《いかでか》不敢《いかでか》汝の命は神璽《しんじ》靈寶にも代へじといひき。人々と媼との物語はこれにて止み、卓を圍める一座の興趣は漸くに加はりて、瓶《へい》は手より手にと忙はしく遣り取りせらるゝことゝなりぬ。さて食を供するに至りて、賊の中にはわが肩を敲きて、皿に肉塊を盛りて呉るゝもありき。唯だ彼媼は故《もと》の如く、室隅に坐して、飮食の事には與《あづか》らざりき。賊の一人は火をその坐のめぐりに添へて、大母よ、汝は凍《こゞ》ゆるならんといひき。我は媼の詞につきて熟※[#二の字点、1−2−22]《つら/\》おもふに、むかし母とマリウチア[#「マリウチア」に傍線]とに伴はれて、ネミ[#「ネミ」に二重傍線]湖畔に花束作りし時、わが上を占ひしことあるは此媼なりしなるべし。我運命の此媼の手中にありと見ゆること、今更にあやしくこそ覺えらるれ。媼はわれに往拿破里と書かしめき。こは固《もと》より我が願ふところなり。されど封傳《てがた》なくして、いかにして拿破里には往かるべきぞ。又|縱令《よしや》かしこに往き着かんも、識る人とては一人だに無き身の、誰に頼りてか活《なりはひ》をなさん。前にはわれ一たび即興詩もて世を渡らんとおもひき。されど羅馬にて人を傷けたりと知られんことおそろしければ、舞臺に出づべきこゝろもなし。されど方言をばよく知りたり、聖母のわれを見放ち給ふことだにあらずば、ともかくもして身を立てんと、強ひて安堵の念を起しつ。あはれ、あやしきものは人のこゝろにもあるかな。この時アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が我を卻《しりぞ》けて人に從ひし悲痛は、却りて我心を抑し鎭むる媒《なかだち》となりぬ。我がこの時の心を物に譬へて言はゞ、商人のおのが舟の沈みし後、身一つを三版《はぶね》に助け載せられて、知らぬ島根に漕ぎゆかるゝが如しといふべき歟《か》。
かくて一日二日と過ぎ行きぬ。新に來り加はる人もあり、又もとより居たる人の去りていづくにか往けるもあり。ある日彼媼さへ、ひねもす出でゝ歸らざりしかば、我は賊の一人とこの山寨《さんさい》の留守することゝなりぬ。この男は年二十の上を一つばかりも超えたるならん。顏は卑しげなるものから、美しき髮長く肩に掛かり、その目《ま》なざしには、常にいと憂はしげなる色見えて、をり/\は又手負ひたる獸などの如きおそろしき氣色《けしき》現るゝことあり。我と此男とは暫し對《むか》ひ坐して語を交ふることなく、男は手を額に加へて物案ずるさまなりしが、忽ち頭を擧げて我面をまもりたり。
花ぬすびと
若者はふと思ひ付きたる如く。おん身は物讀むことを能くし給ふならん。此卷の中なる祈誓の歌一つ讀みて聞せ給へとて、懷より小き讚美歌集一卷取出でたり。われいと易き程の事なりとて、讀み初めしに、若者の黒き瞳子《ひとみ》には、信心の色いと深く映りぬ。暫しありて若者我手を握りて云ふやう。いかなれば汝は復た此山を出でんとするか。人情の詐《いつはり》多きは、山里も都大路《みやこおほぢ》も殊なることなけれど、山里は爽かに涼しき風吹きて、住む人の少きこそめでたけれ。汝はアリチア[#「アリチア」に二重傍線]の婚禮とサヱルリ[#「サヱルリ」に傍線]侯との昔がたりを知るならん。壻《むこ》は卑しき農夫なりき。婦《よめ》は貧しき家の子ながら、美しき少女《をとめ》なりき。侯爵の殿は婚禮の筵《むしろ》にて新婦が踊の相手となり、宵の間にしばし花園に出でよと誘ひ給へり。壻この約を婦に聞きて、婦の衣裳を纏ひ、婦の面紗《おもぎぬ》を被りて出でぬ。好くこそ來つれと引き寄せ給ふ殿の胸には、匕首《あひくち》の刃深く刺されぬ。これは昔がたりなり。われも此の如き貴人を知りたり。そは某《なにがし》といふ伯爵の殿なりき。又此の如き壻を知りたり。唯だ婦は此の如く打明けて物言ふ性《さが》ならねば、新枕《にひまくら》の樂しさを殿に讓りて、おのれは新佛《しんぼとけ》の通夜することゝなりぬ。刃の詐《いつはり》多き胸を貫きし時、膚《はだへ》は雪の如くかゞやきぬとぞ語りし。
わが心中には畏怖と憐愍と交※[#二の字点、1−2−22]《こも/″\》起りぬ。われは詞はなくて、若者の面を打まもりしに、若者又云ふやう。彼も一時なり。此も一時なり。われを女の肌知らぬものと思ひ給ふな。英吉
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