]みしより外知らず。已むことなくば只だ一たび山を見き。ジエンツアノ[#「ジエンツアノ」に二重傍線]の花祭に往きし途すがらの事なり。ネミ[#「ネミ」に二重傍線]湖畔の高原を歩みしに、道は暗く靜けき森林の間を通じたり。彼祭はわが爲には悲き祭なりければ、湖畔の道にて花束つくりしことをさへ、今猶忘れでありしなり、景は心目に上り來れり。今かく物語する時間の半をだに費さずして、景は情を生じ、情は景を生ずるほどに、我は絃を撥《はじ》きたり。情景は言の葉となり、言の葉は波起り波伏す詩句となりぬ。且我が歌ひしところを聽け。深き湖あり。暗き林はそを環《めぐ》れり。湖の畔なる巖は聳《そばだ》ちて天を摩せんとす。こゝに暴鷲《あらわし》の巣あり。母鳥は雛等に教へて、穉《をさな》き翼を振はしめ、またその目を鋭くせんために、日輪を睨ましめき。扨《さて》母鳥の云ひけるやう。汝達は諸鳥の王なるぞ。目は利《と》く、拳は強し。いでや飛べ。飛びて母の側を去れ。我目は汝を送り、我情は彼の死に臨める大鵝《たいが》の簧舌《くわうぜつ》の如く汝が上を歌ふべし。その歌は不撓の氣力を題とせんといひき。雛等は巣立せり。一隻は翅《はね》を近き巖の頂に斂《をさ》めて、晴れたる空の日を凝矚《ぎようしよく》すること、其光のあらん限を吸ひ取らんと欲する如くなりき。一隻は高く虚空に翔《かけ》りて、大圈を畫し、林※[#「木+越」、第3水準1−86−11]《りんゑつ》沼澤を下瞰《かかん》するが如くなりき。岸に近き水面には緑樹の影を倒せるありて、その中央には碧空の光を※[#「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1−91−44]《ひた》すを見る。時に大魚の浮べるあり。その脊は覆《くつがへ》りたる舟の如し。忽ち彼雛鷲は電《いなづま》の撃つ勢もて、さと卸《おろ》し來つ。刃《やいば》の如き利爪《とづめ》は魚の背を攫《つか》みき。母鳥は喜、色に形《あらは》れたり。然るに鳥と魚とは力|相若《あひし》くものなりければ、鳥は魚を擧ぐること能はず、魚は鳥を沈むること能はず、打ち込みたる爪の深かりしために、これを拔かんとするも、亦意の如くならず。こゝに生死の爭は始まりぬ。今まで靜なりける湖水の面は、これがために搖り動され、大圈をなせる波は相重りて岸に迫れり。既にして波上の鳥と波底の魚と、一齊に鎭《しづ》まり、鷲の翼の水面《みのも》を掩《おほ》ふこと蓮葉《はちすは》の如くなりき。忽ち隻翼は又|聳《そばだ》ち起り、竹を割《さ》く如き聲と共に、一翼はひたと水に着き、一翼は劇《はげ》しく水を鞭《う》ち沫《しぶき》を飛ばすと見る間に、鳥も魚も沈みて痕なくなりぬ。母鳥は悲鳴して、巖角なる一隻の雛を顧みるに、こもいつか在らずなりて、首を仰いで遠く望めば、只だ一黒斑の日に向ひて飛ぶを見き。母鳥は悲を轉じて喜となしたり。その胸は高く躍りて、その聲は折るれども撓《たわ》まぬ力を歌ひぬ。我歌はこゝに終り、喝采の聲は座に滿ちぬ。獨り我は※[#「目+寅」、第4水準2−82−14]《またゝき》きもせで、龕《がん》の前なる老女をまもり居たり。そは我が歌ひて半に至りし時、老女の絲繰る手やうやく緩く、はては全く歇《や》みて、暗き瞳の光は我面を穿《うが》つ如く、こなたに注がれたればなり。又我が能く少時の夢を喚《よ》び起して、この詩中に入るゝことの、かくまで細かなることを得しは、この老女の振舞|與《あづか》りて力ありければなり。
媼《おうな》は忽ち身を起し、健《すこや》かなる歩みざまして我前に來て云ふやう。能くも歌ひて、身のしろを贏《か》ち得つるよ。吭《のど》の響はやがて黄金《こがね》の響ぞ。鳥と魚との水底に沈みし時にこそ、この姥《うば》は汝が星の躔《やど》るところを見つれ。鷲よ。いで日に向ひて飛べ。老いたる母は巣にありて、喜の目もてそを見送らんとす。汝が翼をば、誰にも折らせじといふ。我に勸めて歌はせし男|恭《うや/\》しく媼の前に※[#「石+盍」、第4水準2−82−51]頭《ぬかづ》きて、さてはフルヰア[#「フルヰア」に傍線]の君は此わかうどを見給ひしことあるか、又その歌を聞き給ひしことあるかと問ひぬ。媼。そは汝の知らぬ事なり。われは早く幸運の兒の身と光と眼の星とを見き。兒はむかし花の環を作りぬ。後又愈※[#二の字点、1−2−22]美しき花の環を作るならん。その臂《ひぢ》を縛《いまし》むべきことかは。六日が程は巣にあれかし。脊に爪打ち込みしにはあらず。六日立たば、汝この雛を放ち遣りて、日の邊へ飛ばしめよ。斯くつぶやきつゝ、媼は壁の前なる筐《はこ》を探りて、紙と筆とを取り出でつ。あな、やくなし。墨は巖の如くなりぬ。コスモ[#「コスモ」に傍線]よ。人の上のみにはあらず。汝が腕の血を呉れずやといふ。コスモ[#「コスモ」に傍線]と喚《よ》ばれし彼男は
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