フ初の如く坐して繰車《くりぐるま》まはせるあり。黒地《くろぢ》に畫ける像の如し。座のめぐりには、新き炭を添へて、その煖氣は室に滿ちたり。われは客の、彈《たま》は脇を擦過《かす》りたり、些《いさゝか》の血を失ひつれど、一月の間には治すべしといふを聞き得たり。
 わが頭を擡《もた》げしを見て、われを鞍に縛《ばく》せし男のいふやう。客人醒め給ひしよ。十二時間の熟睡は好き保養なるべし。こゝなるグレゴリオ[#「グレゴリオ」に傍線]は羅馬より好き信《たより》をもて來たり。そはおん身の喜び給ふべき筋の事なり。手を下しゝはおん身に極つたり。時も所も符を合す如し。驕《おご》りたる評議廳の官人は、おん身がために、容赦なくその長裾《ちやうきよ》を踏まれぬと見えたり。お身の大膽なる射撃に遭ひしは、評議官の從子《をひ》なりき。これを聞きてわれは僅に、命にはさはらずやと問ふことを得き。グレゴリオ[#「グレゴリオ」に傍線]の云はく。先づ死なで濟むべし。醫者は然《しか》云ひきとぞ。鶯の如き吭《のど》ありといふ、美しき外國婦人の夜を徹《とほ》して護り居たるに、醫者は心を勞し給ふな、本復《ほんぷく》疑なしといひきとぞといふ。我を伴ひ來し男の云はく。われおもふに、君は男の身を錯《あやま》り射給ひしのみにあらず、女の心をも亦錯り射給ひしなり。雌雄《めを》は今|雙《なら》び飛ぶべし。君は唯だこゝに在《いま》せ。自由なる快活なる生計《たつき》なり。君は小なる王者たることを得べし。而してその危さは決して世間の王位より甚しからず。酒は酌めども盡きざるべし。女は君を欺《あざむ》きし一人の代りに、幾人をも寵し給へ。同じく是れ生活なり、餘瀝《よれき》を嘗むると、滿椀を引くと、唯だ君が選み給ふに任すと云ひき。
 ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は死せず。我は人を殺さず。この信は我がために起死の藥に※[#「にんべん+牟」、第3水準1−14−22]《ひと》しかりき。獨りアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]を失ひつる憂に至りては、終に排するに由なきなり。われは猶豫することなく答へき。我身は只君等の處置するに任すべし。されどわが嘗て受けし教と、現《げん》に懷《いだ》ける見《けん》とは、俘囚《とりこ》たるにあらずして、君等が間に伍すべきやうなし。これを聞きて、我を伴ひ來し男の顏は、忽ち嚴《おごそか》なる色を見せたり。盾銀《たてぎん》六百枚は定まりたる身のしろなり。そを六日間に拂ひ給はゞ、君は自由の身なるべく、さらずば君が身は、生きながらか、殺してか、我物とせではおかじ。こは此處の掟《おきて》なれば、君が紅顏も我丹心も、寛假《くわんか》の縁《えにし》とはならぬなるべし。六百枚なくば、我等の義兄弟となりて生きんとも、彼處《かしこ》なる枯井の底にて、相擁して永く眠れる人々の義兄弟となりて終らんとも、二つに一つと思はれよ。身のしろ求むる書をば、友達に寄せ給はんか、又彼歌女に寄せ給はんか。おん身の一撃|媒《なかだち》となりて、二人はその心を明しあひつれば、さばかりの報恩をば、喜びてなすなるべし。斯く語りつゝ、男は又から/\と笑ひて云ふ。廉《やす》き價なり。この宿の客人に、還錢《かんぢやう》のかく迄廉きことは、その例少からん。都よりの馬のしろ、六日の旅籠《はたご》を思ひ給へ。われ。我志をば既に述べたり。我はさる書をも作らざるべく、又君等が夥伴《なかま》にも入らざるべし。男。さて/\強情なる人かな。されどその強情は憎くはあらず。我|彈丸《たま》の汝が胸を貫かんまでも、その心をば讚めて進ずべし。命惜まぬ客人よ。生くといふには種々あり。少年の心は物に感じ易しといふに、吾黨がかく累《わずらひ》なく障《さはり》なき世渡するを見て、羨ましとは思はずや。そが上おん身は詩人にて、即興詩もて口を糊せんといふにあらずや。吾黨の自由|不羇《ふき》の境界《きやうがい》を見て心を動すことはなきか。客人試みに此境界を歌ひ給へ。題をば巖穴の間なる不撓《ふたう》の氣象とも曰ふべきならん。客人若しこれを歌はゞ、彼生活といひ性命といふものゝ、樂む可く愛す可きを説かざることを得ぬなるべし。その杯を傾けて、歌ひて我等に聽せ給へ。出來好くば六日の期を一日位は延ばすべしといふ。男は手をさし伸べて、壁上なる「キタルラ」を取りて我に授けつ。賊の群は立ちて我席を繞《めぐ》りたり。
 われはそを把《と》りて暫く首を傾けたり。課する所の題は巖穴山野にて、こは我が曾て經歴せざるところなり。前の夜こゝに來し時は、目を掩《おほ》はれたれば甲斐なし。昔見しところを言はゞ、羅馬のボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]、パムフイリ[#「パムフイリ」に傍線]の兩苑に些の松林ありしに過ぎず。まことの山とては、幼かりし程ドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]が家の窓より
前へ 次へ
全169ページ中73ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
アンデルセン ハンス・クリスチャン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング