驍ス》を弄《もてあそ》べり。火光の照し出せる面《おも》ざしは、苦《にが》みばしりて落ち着きたるさまなり。人々は生面の客あるを見ても、絶て怪み訝《いぶか》ることなく、我に榻《こしかけ》を與へて坐せしめ、我に盞《さかづき》を與へて飮ましめ、肴《さかな》せんとて鹽肉團《サラメ》をさへ截《き》りてくれたり。その相語るを聞くに、方言にて解すべからず、されど我上に關《かゝ》はらざる如くなりき。
我は飢を覺えずして、たゞ燃ゆる如き渇を覺えしかば、酒を飮みつゝ四邊《あたり》を見たり。隅々には脱ぎ棄てたる衣服と解き卸したる兵器とあるのみ。一角に龕《がん》の如く窪みたる處あり。その天井には半ば皮剥ぎたる兎二つ弔《つ》り下げたり。初め心付かざりしが、その窪みたる處には一人の坐せるあり。年老いたる媼《おうな》の身うち痩せ細りたるが、却りて脊直《せすぐ》にすくやかげなる坐りざまして、あたりに心留めざる如く、手はゆるやかに絲車を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]せり。銀の如き髮の解けたるが、片頬に墜《お》ちかゝりて、褐色なる頸のめぐりに垂るゝを見る。その墨の如き瞳は、とこしへに苧環《をだまき》の上に凝注せり。焚《た》きさしたる炭の半ば紅なるが、媼の座の畔《ほとり》にちりぼひたるは、妖魔の身邊に引くといふ奇《くす》しき圈《わ》とも看做《みな》さるべし。まことに是れ一幅クロト[#「クロト」に傍線]の活畫像なり。(譯者云。古説に三女ありて人生運命の泰否を掌《つかさど》る。性命の絲を繰るをクロト[#「クロト」に傍線]と曰ひ、これを撮みたるをラヘシス[#「ラヘシス」に傍線]と曰ひ、これを斷つをアトロポス[#「アトロポス」に傍線]と曰ふ。姉妹神なり。)
人々の我事にかゝづらはざりしは、久しからぬ程なりき。忽ち糺問《きうもん》は始まりぬ。職業は何ぞ、資産ありや否や、親戚ありや否や抔《など》いふことなりき。我は徐《しづ》かに答へき。わが帶び來たるところのものをば、最早君等に傾け贈りぬ。かくてこの身はやうなき貨《しろもの》となりぬ。縱《たと》ひ羅馬《ロオマ》わたりに持ち往きて沽《う》らんとし給ふとも、盾銀《たてぎん》一つ出すものだにあらじ。廉《かど》ある生活《なりはひ》の業《わざ》をも知らず。頃日《このごろ》は拿破里《ナポリ》に往きて、客に題をたまはりて、即座に歌作りて謳《うた》はんと志したり。斯く語るついでに、われはこたび身を以て逃れたる事のもとさへ、包み藏《かく》さずして告げぬ。唯だアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が上をば少しも言はざりき。さてわが物語の終は、この上殊なる望なければ、この身を官府に引き渡して、襃美にても受け給へといふことなりき。
一人の男のいはく。さりとては珍らしき望なるかな。想ふに羅馬市には、黄金《こがね》の耳環《みゝわ》を典して、客人を贖《あがな》ひ取ることを吝《をし》まざる人あるならん。拿破里《ナポリ》の旅稼《たびかせぎ》は、その後の事とし給はんも妨《さまたげ》あらじ。さはあれ強ひて直ちに拿破里に往かんとならば、あぶなげなく彊《さかひ》を越させ申さんことも、亦我等の手中に在り。留りて此樂園に居らんとならば、それも好し。こゝに在るは善き人々なるをば、客人も夙《と》く悟り給ひしならん。されど此等の事思ひ定め給はんには、先づ快く一夜の勞を醫《いや》し給ふに若かず。こゝに佳《よ》き牀《とこ》あり。それのみならず、來歴ある好き衾《ふすま》をも借し參らせん。巽風《シロツコ》吹く頃の夕立をも、雪ふゞきをも凌《しの》ぎし衾ぞとて、壁よりはづして投げ掛くるは、褐色なる大外套なり。牀といふは卓の一端の地上に敷ける藁蓆《わらむしろ》なり。その男は何やらん一座のものに言置き、「ヂツセンチイ、オオ、ミア、ベツチイナ」(降《お》り來よ、やよ、我戀人)と俚歌《ひなうた》口ずさみて出行きぬ。
血書
われは眠ることを期せずして、身を藁蓆の上に僵《たふ》しゝに、前《さき》の日よりの恐ろしき經歴は魘夢《えんむ》の如く我心を劫《おびやか》し來りぬ。されど氣疲れ力衰へたればにや目※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》おのづから合ひ、いつとは知らず深き眠に入りて、終日復た覺むることなかりき。
醒めたる時は心地|爽《さはや》かになりて、前に心身を苦めつる事ども、唯だ是れ一場の夢かと思はるゝ程なりき。然はれそは一瞬の間にして、身の在るところを顧み、四邊なる男等の蹙《しか》みたる顏付を見るに及びては、我魘夢の儼然として動《うごか》すべからざる事實なるを認めざることを得ざりき。
一客あり。灰色の外套を偏肩に引掛け、腰に拳銃を帶びたるが、馬に騎《の》りたる如く長椅に跨《またが》りて、男等と語れり。穹窿の隅の方には、彼の雜種《あひのこ》いろしたる老女
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