閨B我馬の尾に縋《すが》りて泅《およ》がんこともたやすからねば、鞍の半を分けて參らすべし。渠は我を後《うしろ》ざまに馬の脊に掻き載せて、おのれは前の方に跨り、水に墜《おと》さぬ用心なりとて、太き綱を我胸と肘《ひぢ》とのめぐりに卷きて、脊中合せにしかと負ひたり。我には手先を動かす餘地だになかりき。逞ましき馬は前脚もて搜《さぐ》りつゝ流に入りしが、水の脇腹に及ぶころほひより、巧に泳ぎて向ひの岸に着きぬ。渠《かれ》は河ごしは濟みたりと笑ひて、綱を弛《ゆる》むる如くなりしが、こたびは我脊を緊《きび》しく縛りて、その端を鞍に結《ゆ》ひつけ、鞍をしかと掴みておはせ、墜ちなば頸の骨をや摧《くじ》き給はんといひて、靴の踵を馬の脇に加ふれば、連なる男も同じく足をはたらかせたり。かくて二匹の馬三個の人は、弦《つる》を離れし矢の如くカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の原野を横ぎりたり。前なる男の長き髮は、風に亂れて我頬を拂へり。頽《くづ》れたる家の傍、斷えたる水道の柱弓《せりもち》の畔《ほとり》を、夢心に過ぎゆけば、血の如く紅なる大月《たいげつ》地平線より輾《まろが》り出で、輕く白き靄《もや》騎者《のりて》の首《かうべ》を繞《めぐ》りてひらめき飛べり。
山塞
友を殺し、女に別れ、國を去りて、兇賊の馬背に縛《いまし》められ、カムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の廣野を馳《は》す。一切の事、おもへば夢の如く、その夢は又怪しくも恐ろしからずや。あはれ此夢いつかは醒《さ》めん、醒めてこの怖るべき形相《ぎやうさう》は消え淪《ほろ》びなん。心を鎭めて目を閉づれば、冷《ひやゝか》なる山おろしの風は我頬を繞《めぐ》りて吹けり。
山路にさしかゝると覺しき時、騎者《のりて》は背後なる我を顧みて詞をかけたり。程なく大母《おほば》の蔽膝《まへだれ》の下に息《やす》らふべければ、客人も心安くおぼせよ。良き馬にあらずや。この頃|聖《サン》アントニオ[#「アントニオ」に傍線]の禳《はらひ》を受けたり。小童《こわつぱ》の絹の紐もて飾りて牽《ひ》き往きしに、經を聽かせ水を灌《あび》せられぬれば、今年中はいかなる惡魔の障碍をも免るゝならん。
岩間の細徑に踏み入る頃、東の天は白みわたりぬ、連《つれ》なる騎者馬さし寄せて、夜は明けんとす、客人の目疾《めやみ》せられぬ用心に、涼傘《ひがさ》さゝせ申さんと、大なる布を頭より被せ、頸のまはりに結びたれば、それより方角だに辨《わきま》へられず。諸手《もろて》をば縛《いまし》められたり。我|身上《みのうへ》は今や獵夫《さつを》に獲られたる獸にも劣れり。されど憂に心|昧《くら》みたる上なれば、苦しとも思はでせくゞまり居たり。馬の前足は大方仰ぐのみなれど、ともすれば又暫し阪道を降る心地す。茂りあひたる梢は頻りに我頬を拊《う》てり。道なき處をや騎《の》り行くらん覺束《おぼつか》なし。
久しき後馬より卸《おろ》して、我を推して進ましむ。かれこれ復た隻語《せきご》を交へず。狹き門を過ぎて梯《はしご》を降りぬ。心神定まらず、送迎|忙《いそが》はしき際の事とて、方角|道程《みちのり》よくも辨へねど、山に入ること太《はなは》だ深きにはあらずと思はれぬ。わがその何れの地なるを知りしは、年あまた過ぎての事なり。後には外國人《とつくにびと》も尋ね入り、畫工の筆にも上りぬ。こゝは古《いにしへ》のツスクルム[#「ツスクルム」に二重傍線]の地なり。栗の林、丈高き月桂《ラウレオ》の村立《むらだち》ある丘陵にて、今フラスカアチ[#「フラスカアチ」に二重傍線]と呼ばるゝ處の背後にぞ、この古跡はあなる。「クラテエグス」、野薔薇などの枝生ひ茂りて、重圈をなせる榻列《たふれつ》の石級を覆へり。山のところどころには深き洞穴あり、石の穹窿あり。皆|草叢《くさむら》に掩《おほ》はれて、迫り視るにあらでは知れ難かるべし。谷のあなたに聳《そばだ》てるはアプルツチイ[#「アプルツチイ」に二重傍線]の山にて、沼澤《せうたく》を限り、この邊の景に、物凄き色を添ふ。あはれ此山の容《かたち》よ。この故址《こし》斷礎の間より望むばかり、人を動すことは、またあらぬなるべし。
騎者等の我を拉《ひ》き往くは、とある洞窟の一つにて、その入口は石楠《エピゲエア》の枝といろ/\なる蔓艸《つるくさ》とに隱されたり。我等は足を駐《とゞ》めつ。徐《しづ》かに口笛吹く聲と共に、扉を開く響す。再び數級の石磴《せきとう》を下る。數人《すにん》の亂れ語る聲我耳に入りし時、頭に纏《まと》へる布は取り除けられぬ。わが身は大穹窿の裏《うち》に在り。中央なる大卓の上に眞鍮《しんちゆう》の燈二つ据ゑて、許多《あまた》の燈心に火を點じ、逞しげなる大漢《おほをとこ》數人の羊の裘《かはごろも》着たるが、圍み坐して骨牌《か
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