c《アダム》が第一の子にして、弟を殺して神に供へき。)この間幾時をか經たる、知らず。わが足を駐《とゞ》めしは、黄なるテヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]の流の前を遮《さへぎ》るを見し時なりき。羅馬より下、地中海の荒波寄するあたりまで、この流には橋もなし、また索《もと》むとも舟もあらざるべし。この時我は我胸を噬《か》む卑怯の蛆《うじ》の兩斷せらるゝを覺えしが、そは一瞬の間の事にて、蛆は忽《たちまち》又|蘇《よみがへ》りたり。われは復《ま》たいかなる決斷をもなすこと能はざりき。
われはふと首《かうべ》を囘《めぐ》らしてあたりを見しに、我を距ること數歩の處に、故墳の址あり。むかしドメニカ[#「ドメニカ」に傍線]が許に養はれし時、往きて遊びし冢《つか》に比ぶれば、大さは倍して荒れたることも一入《ひとしほ》なり。頽《くづ》れ墮《お》ちたるついぢの石に、三頭の馬を繋ぎたるが、皆おの/\顋下《さいか》に弔《つ》りたる一束の芻《まぐさ》を噛めり。
墓門より下ること二三級なる窪みに、燃え殘りたる焚火を圍める三個の人物あり。その火影の早く我目に映らざりしにても、我が慌てたるを知るに足るべし。火の左右に身を横《よこた》へたる二人は、逞《たく》ましげに肥えたる農夫なるが、毛を表にしたる羊の裘《かはごろも》を纏ひ、太き長靴を穿き、聖母の圖を貼《つ》けたる尖帽を戴き、短き烟管《きせる》を銜《ふく》みて對《むか》ひあへり。第三個は鼠色の大外套にくるまり、帽をまぶかに被りてついぢに靠《よ》りかゝりたるが、その身材《みのたけ》はやゝ小く、瓶《へい》を口にあてゝ酒飮み居たり。
わが渠等《かれら》を認めしとき、渠等も亦我を認めき。肥えたる二人は齊《ひと》しく銃を操《と》りて立ち上り[#「立ち上り」は底本では「立り上り」]たり。客人は何の用ありてこゝに來しぞ。われ。舟をたづねて河をこさんとす。三人は目を合せたり。甲。むづかしきたづねものかな。挈《さ》げ持ちて旅するものは知らず。こゝ等には舟も筏《いかだ》もなし。乙。客人は路にや迷ひ給ひし。こゝは物騷なる土地なり。デ・チエザアリ[#「デ・チエザアリ」に傍線]が夥伴《なかま》は遠き處まで根を張れば、法皇はいかに鋤《すき》を揮《ふ》り給ふとも、御腕の痛むのみなり。甲。客人はなどて何の器械《えもの》をも持ち給はぬ。見られよ、この銃は三連發なり。爲損《しそん》じたるときの用心には腰なる拳銃あり。丙。この小刀《こがたな》も馬鹿にはならぬ貨物《しろもの》なり。(かの身材小さき男は冰《こほり》の如き短劍を拔き出だして手に持ちたり。)乙。早く※[#「革+室」、67−下段−23]《さや》に納めよ。年若き客人は刃物は嫌ひなるべし。客人、われ等に逢ひ給ひしは爲合《しあは》せなり。若し惡棍《わるもの》などに逢ひ給はゞ、素裸にせられ給はん。金あらば我等にあづけ給へ。
われは今三人の何者なるかを知りたり。我五官は鈍りて、我性命は價なきものとなりぬ。諸君よ、わが持てる限の物をば、悉く贈るべし、されどおん身等を※[#「厭/食」、第4水準2−92−73]《あ》かしむるに足らざるこそ氣の毒なれと答へて、われは進寄りつゝ、手を我|衣兜《かくし》にさし籠《こ》みたり。われは兜兒《かくし》の中に猶|盾銀《たてぎん》二つありしを記したり。而るに我手に觸れたるは、重みある財布なりき。抽《ひ》き出して見れば、手組《てあみ》の女ものなるが、その色は曾てアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が媼の手にありしものに似たり。落人《おちうど》の盤纏《ろよう》にとて、危急の折に心づけたる、彼媼の心根こそやさしけれ。三人ひとしくさし伸ぶる手を待たで、われは財布の底を掴みて振ひしに、焚火に近き※[#「匚<扁」、第4水準2−3−48]石《ひらいし》の上に、こがねしろかね散り布けり。眞物《ほんもの》ぞと呼びつゝ、人々拾ひ取りて勿體なき事かな、盜人などに取られ給はゞいかにし給ふといふ。われ。貨物《しろもの》はそれ丈なり。疾《と》く我命を取り給へ。生甲斐なき身なれば毫《すこ》しも惜しとはおもはず。甲。思ひも寄らぬ事なり。我等はロツカ・デル・パアパ[#「ロツカ・デル・パアパ」に二重傍線]に住める正直なる百姓仲間なり。同じ教の人を敬ふ基督の徒なり。酒少し殘りたり。これを飮みて、かく怪しき旅し給ふ事のもとを明し給へ。われ。そはわが祕事《ひめごと》なり。かく答へて我は彼瓶を受け、燥《かわ》きたる咽を潤したり。
三人は何事をかさゝやきあひしが、小男は嘲《あざ》み笑ふ如き面持して我に向ひ、煖《あたゝか》き夕のかはりに寒き夜をも忍び給へといひて立ちぬ。渠《かれ》は驅歩《かけあし》の蹄の音をカムパニア[#「カムパニア」に二重傍線]の廣野に響かせて去りぬ。甲。いざ客人、船を待ち給はんは望なき事な
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