tとは汚れ裂けたるまゝなり。後に跟《つ》きて來たるは同じさまに汚れたる衣着たる父母なりき。この父母はおのれ等の信ぜざる後世《ごせ》のために、その一人の童を賣りしなるべし。われ。君はをさなき時この羅馬にありてそを見きとのたまふか。姫。然なり。されど我は羅馬のものにはあらず。われ。我は始て君が歌を聽きしとき、直ちに君のむかし識りたる人なることを想ひき。そを何故とも言ひ難けれど、この念は今も猶|失《う》することなし。若しわれ等|輪※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]《りんね》應報の教を信ぜば、われも君も前生は小鳥にて、おなじ梢に飛びかひぬともいひつべし。君にはさる記念なしや。何處にてか我を見しことありとはおぼさずや。姫は我と目を見あはせて、絶てさる事なしと答へき。われ詞を繼ぎて。初めわれ君は穉きときより西班牙《スパニア》に居給ひぬと思ひしに、今のおん詞にては羅馬にも居ましゝなり。我惑はいよ/\深くなりぬ。君既にをさなくして此都に居給ひきといへば、若しこゝの稚き子等と共に、「アラチエリ」の寺にて説教のまねし給ひしことあらずや。姫。あり/\。まことにさやうなる事|侍《はべ》りき。さてはかの折人々の目に留まりし童はアントニオ[#「アントニオ」に傍線]、おん身なりしか。われ。いかにも初め目に留まりしは我なりき。されど勝をば君に讓りしなり。姫はげに思ひも掛けぬ事かなと、我兩手を把《と》りて我面を見るに、媼さへその氣色《けしき》の常ならぬを訝《いぶか》りて、椅子をいざらせ、我等が方をうちまもりぬ。姫は珍らしき再會の顛末《もとすゑ》を媼に説き聞《きか》せつ。われ。我母もその外の人々も暫くは君が上をのみ物語りぬ。その姿のやさしさ、その聲の軟さをば、穉き我心にさへ妬《ねた》ましきやうに覺えき。姫。その時君は金《かね》の控鈕《ボタン》附きたる短き上衣を着たまひしこと今も忘れず。その衣をめづらしと見しゆゑ、久しく記憶に殘れるなるべし。我。君は又胸の上に美しき赤き鈕《ひも》を垂れ給ひぬ。されど最も我目に留まりしはそれにはあらず。君が目、君が黒髮なりき。人となり給へる今も、その俤《おもかげ》は明に殘れり。始て君がヂド[#「ヂド」に傍線]に扮し給へるを見しとき、われは直ちにこの事をベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]に語りぬ。さるをベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]はそを我迷ぞといひ消して、却りておのれが早く君を見きと覺ゆる由を語りぬ。姫、そは又いかにしてと問ひしが、その聲うち顫ふ如くなりき。われ。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]が君を見きといふは、いたく變りたる境界なり。惡しくな聞き給ひそ。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]も後に誤れることを覺りぬ。君が髮の色濃きなど、人にしか思はるゝ端となりしなるべし。君は、君はわが加特力教の民にあらず、されば「アラチエリ」の寺にて説教のまねし給ふ筈なしとの事なりき。姫は媼の方を指ざして、さては我友とおなじ教の民ぞといひしなるべしといふ。われは直にその手を取りて、わが詞のなめしきを咎め給ふなと謝したり。姫微笑みて、君が友の我を猶太少女とおもひきとて、われ爭《いかで》でか心に掛くべき、君は可笑しき人かなといひぬ。この話は我等の交を一と際深くしたるやうなりき。わが日頃の憂さは悉く散じたり。さてわが再び見じとの決心は、生憎《あやにく》にまた悉く消え失せたり。
姫はふと基督再生祭前のこの頃閉館中なる羅馬の畫廊の事を思ひ出でゝ、かゝる時好き傳《つて》を得て往き看《み》ば、いと面白かるべしといふに、姫の願としいへば何事をも協へんとおもふわれ、幸にボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]の館の管守、門番など皆識りたれば、そは容易《たやす》き事なりとて、あくる朝姫と媼とを伴ひ往かんことを約しつ。かの館は羅馬の畫廊のうちにて最も備れる一つなり。フランチエスカ[#「フランチエスカ」に傍線]の君の穉《をさな》き我を伴ひ往き給ひしはかしこなれば、アルバニ[#「アルバニ」に傍線]が畫の羽ある童は皆わが年ごろの相識なり。
靜なる我室に歸りて、つら/\物を思ふに、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]はまことに彼君を戀ふるに非ず。卑しき色慾を知りて、高き愛情を解せざる男の心と、深けれども能く澹泊《たんぱく》に、大いなれども能く抑遜《よくそん》せる我心とは、日を同じくして語るべからず。さきの日の物語の憎かりしことよ。彼はたゞ驕慢《けうまん》なり。彼はたゞ放縱なり。かくて飽くまで我を傷けたり。そはアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の我に優しきを妬《ねた》みてなるべし。初め我を紹介せしは、いかにも彼男なりき。されど今その心を推《すゐ》すれば、好意とはおもはれず。おのが風采態度のすぐれたるを彼君に見するとき、その側に世馴れ
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