ハ我を居らせて反映せしめんためにはあらずや。さるを我歌我詩は端《はし》なく彼君の心にかなひぬ。妬の心はこれより萌《きざ》せるならん。さて我を又姫に逢はせじとて、かくは我を脅しゝなるべし。幸にわれ好き機會を得て、今は姫との交いと深くなりぬ。姫は我を憐めり。加之《しかのみなら》ず姫は我戀を知りたり。かく思ひつゞけつゝ、我は枕に接吻せり。さるにても口惜しきは、わが意氣地なき性質なり。いかなれば我は先の日直ちに彼の無禮を責めざりしぞ。かの詞にはかく答ふべかりしなり。かの辱《はづかしめ》をばかく雪《そゝ》ぐべかりしなり。我血は湧き上りたり。無上の快樂に無比の慙恨打ち雜りて、我は睡ること能はざりしが、曉近くおもひの外に妥《おだやか》なる夢を結びぬ。
翌朝は夙《はや》く起き、管守を訪ひて預《あらかじ》めことわりおき、さて姫と媼とを急がせつゝ共にボルゲエゼ[#「ボルゲエゼ」に傍線]の館に往きぬ。
畫廊
畫廊はわが穉かりしとき、惠深き貴婦人の我を伴ひ往きて、おろかなる問、いまだしき感の我口より出で我言に發するごとに、面白しとて嬉《たのし》み笑ひ給ひしところにして、又わが獨り入りて遊び暮らしゝところなれば、今アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]を導き往くことゝなりたる我胸には、言ひ知らず怪しき情漲り起れり。既に入りて畫を看れば、幅《ふく》ごとに舊知なるごとく思はる。されど姫は却りてこれを知ること我より深かりき。姫は生れながらの官能に養ひ得たる鑒識《かんしき》をさへ具へたれば、その妙處として指し示すところは悉く我を服せしめ、我にその神會《しんゑ》の尋常に非ざるを歎ぜしめたり。
姫はジエラルドオ・デル・ノツチイ[#「ジエラルドオ・デル・ノツチイ」に傍線]の名ある作なるロオト[#「ロオト」に傍線](ソドム[#「ソドム」に二重傍線]に住みしハラン[#「ハラン」に傍線]の子)とその女兒との圖の前に立てり。われはをゝしき父の面、これに酒を勸むる樂しげなる少女の姿、暗く繁りあひたる木立のあなたに見ゆる夕映の空などめでたしと稱へしに、姫我ことばを遮《さへぎ》りて、げに/\奇なる才激せる情もて畫けるものと覺し、作者の筆の傅色《ふしよく》表情の一面は寔《まこと》に貴むべし、さるを此の如き題(ロオト[#「ロオト」に傍線]は其女子と通じたり)を選みしこそ心得られね、畫にも禮儀あり、品性あらんは我がつねに望む所なり、コルレジヨオ[#「コルレジヨオ」に傍線]がダナエ[#「ダナエ」に傍線]なども、己れは人の愛《め》づらんやうには愛でず、少女(ダナエ[#「ダナエ」に傍線]を謂ふ、希臘諸神の祖なるチエウス[#「チエウス」に傍線]黄金の雨となりて遘《ま》き給ひ、ペルセウス[#「ペルセウス」に傍線]を生ませ給ふ)の貌はいかにも美しく、臥床《ふしど》の上にて黄金掻き集むる羽ある童の形もいと神々しけれど、その事餘りにみだりがはしくして、興さむる心地す、ラフアエロ[#「ラフアエロ」に傍線]の大なるはこゝにあり、わが知れる限は、その採るところの題、毎《つね》に高雅にして些《いさゝか》の穢《けが》れだになし、かくてこそめでたき聖母の面影をば傳ふべかりしなれといふ。われ。仰せは理あるに似たれども、畫の妙は題の穢を忘れしむることあるべし。姫。そはきはめて有るべからざる事なり。藝術はその枝その葉の末までも、清淨|醇白《じゆんぱく》なるべきものにて、理想の高潔は人を動かすこと形式の美麗に倍す。古の作者の手に成りし聖母の像を視るに、すべて硬く鋭くして、支那人の畫もかくやとおもはるれども、我はこれに打ち向ふごとに、必ず心の底に徹する如き念をなせり。この高潔といふものは、その作畫者のために缺くべからざること、度曲者《ときよくしや》に於けると同じ。名作中こゝかしこに稍※[#二の字点、1−2−22]過ぎたりと見ゆる節あるをば、その作者の一時の出來心と看做《みな》して、恕《ゆる》すこともあるべけれど、その疵瑕《しか》は遂に疵瑕たることを免るべからず。わがまことに愛づるは無瑕の美玉にこそ。われ。さらば君は變化を命題の間に求めんことをば是とし給はずや。いかなる大家|鉅匠《きよしやう》にても、幅ごとに題を同うせば人の厭倦を招くなるべし。姫。否々、そは我が言はんと欲せしところにあらず。わが本意は畫工に聖母のみ畫かせんとにはあらず。めでたき山水も好し。賑はしき風俗畫、颶風《ぐふう》に抗《あらが》ふ舟の圖も好し。サルワトオレ・ロオザ[#「サルワトオレ・ロオザ」に傍線]が山賊の圖もいかでか好からざらん。われは唯だ藝術の境に背徳を容れじとこそ云へ。わが趣味より視れば、かの「シヤリア」宮なるシドオニイ[#「シドオニイ」に傍線]の畫の如きすら、その巧緻その汚穢《をわい》を掩《おほ》ふに足らず。君は猶彼圖を記し給ふ
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