艪ばたゞ此儘にてあらせよ。對話はおほよそ此の如くなりき。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]が毒箭《どくや》は痛く我胸を傷けしが、別に臨みて我に握らせたる手は、遂にわれ等が交情を滅するに至らずして止みぬ。

   をさなき昔

 翌日は木曜の祭日なりき。鐘の音は我を聖《サン》ピエトロ[#「ピエトロ」に傍線]の寺に誘ひぬ。嘗て外國人《とつくにびと》ありて此寺の堂奧はこゝに盡きたりとおもひぬといふ、いと廣き前廳《まへには》に、人あまた群《む》れたるさま、大路《おほぢ》の上又天使橋の上に殊ならず。羅馬の民はけふ悉くこゝに集へるなり。されば彼外國人ならぬものも、おなじ迷を起すべう思はる。何故といふに、人愈※[#二の字点、1−2−22]|衆《おほ》くして廳は愈※[#二の字点、1−2−22]|闊《ひろ》しと見ゆればなり。
 歌は頭の上に起りぬ。伶人の群をば棚の二箇處に居らせて、其聲相應ずるやうにせり。群衆は洗足の禮の今始まるを見んとて押し合へり。(此日法皇老若の僧徒十三人の足を洗ひ、僧徒は法皇の手に接吻して、おの/\「マチオラ」の花束を賜《たまは》り退くことなり。)偶※[#二の字点、1−2−22]《たま/\》貴婦人席より我に目禮するものあり。誰ぞと視ればアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]なりき。彼君は歸りぬ。彼君は此堂にあり。我胸はいたく騷げり。その席幸に遠からねば、我等は詞を交すことを得たり。姫は咋日歸りしかど、樂ははや果てし後にて、僅に「アヱ、マリア」の時此寺には來ぬとなり。
 姫。此寺の光景はきのふ暗くて見しかた、けふのめでたきにも増してめでたかりき。聖ピエトロ[#「ピエトロ」に傍線]の墓の前なる一燈の外には何の光もなく、その光さへ最近き柱を照すに及ばざる程なるに、人々跪《ひざまづ》きて祷《いの》れば、われも亦跪きぬ。緘默《かんもく》の裡《うち》に無量の深祕あるをば、その時にこそ悟り侍りしかといふ。側にありし例の猶太《ユダヤ》婦人は、長き紗もて面を覆ひたれば、今までそれと知らざりしに、優しく我に會釋しつ。式は早や終りぬれば、姫はおのれを車に導くべき從者や來ると顧みたれど、その影だに見えず。若き人々の姫を認めて耳語《さゝや》き合ふもあれば、姫は早くこの堂を出でんとおもへる如し。われは車に導かんことを請《こ》ひしに、猶太婦人は直ちに手を我肘に懸け、姫は我と並びて行けり。我は姫に我肘に倚《よ》らんことを勸むる膽《たん》なかりき。されど表口の戸に近づきて、人の籠《こ》み合ふこと甚しかりしとき、姫は手を我肘に懸けたり。我脈には火の循《めぐ》り行くを覺えき。車をば直ちに見出だしつ。わが暇を告げんとせしとき、姫今は精進《せじみ》の時なれば何もあらねど、夕餉《ゆふげ》參らすべければ來まさずやと案内したるに、媼《おうな》は快手《てばや》くおのれが座の向ひなる榻《こしかけ》に外套、肩掛などあるを片付け、こゝに場所あり、いざ乘り給へと、我手を把《と》りぬ。共に車に載せんといひしならぬを、媼の耳|疎《うと》くしてかく聞き誤りたるなれば、姫ははしたなくや思ひけん、顏さと赧《あか》めたり。されど我は思慮する遑《いとま》もあらで乘り遷《うつ》り、御者《ぎよしや》も亦早く車を驅りぬ。
 膳は豐なるにはあらねど、一として王侯の口に上《のぼ》すとも好かるべき贅澤品ならぬはなし。姫はフイレンチエ[#「フイレンチエ」に二重傍線]にての事細かに語りて、さて精進日の羅馬はいかなりしと問ひぬ。こは我がためにはあからさまに答ふべくもあらぬ問なりき。
 われ。土曜日には猶太教徒の洗禮あるべし。君も往きて觀給ふべきか。此詞は料《はか》らず我口より出でしが、われは忽ち彼媼の側にあるを思ひ出だして、氣遣はしげにかなたを見き。姫。否、心に掛け給ふな。御身の詞は聞えざりき。されど聞ゆとも惡しく聞くべうもあらず。唯だ彼人の往かんは妥《おだやか》ならねば、我もえ往かざるべし。そが上コンスタンチヌス[#「コンスタンチヌス」に傍線]の寺なる彼儀式は固より餘り愛《め》でたからぬ事なり。(この儀式は歳ごとに基督再生祭に先だつこと一日にして行へり。猶太教徒若くは囘々《フイフイ》教徒|數人《すにん》をして加特力《カトリコオ》教に歸依《きえ》せしめ、洗禮を行ふなり。羅馬年中行事に「シイ、アフ、イル、バツテシイモ、ヂイ、エブレイ、エ、ツルキイ」と記せり。)僧侶は異教の人の歸依せるをもて正法の功力《くりき》の所爲となし、看る人に誇れども、その異教の人のまことに心より宗旨を改むるは稀なり。われもをさなき時一たび往きて觀しことあり。その折の厭ふべき摸樣は今に至るまで忘られず。拉《ひ》き來りしは六つ七つばかりの猶太人の童なりき。櫛の痕なき頭髮の蓬々たるに、寺の贈なる麗しき素絹の上衣を纏へり。靴と韈《くつした
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