カゆ》は始まりぬ。(絃歌に先だちて十五章の讀誦あり。壇上に巨燭十五|枝《し》を燃やしおきて、一章終るごとに一燭を滅す。)われは心を死せる文字の間に濳むること能はず、魂を彼のミケランジエロ[#「ミケランジエロ」に傍線]が世に罕《まれ》なる丹青の力もて此堂の天井と四壁とに現ぜしめたる幻界に馳せたり。その活けるが如き預言者等の形は一個々皆大册の藝術論の資をなすに餘あるべし。その力量ある容貌風采とこれを圍める美しき羽ある兒《ちご》の群とは、我眼を引くこと磁石の鐵を引く如くなりき。こは畫にあらず。活ける神人なり。エワ[#「エワ」に傍線]が果《このみ》を夫に贈りし智慧の木は鬱蒼として彼處《かしこ》に立てり。父なる神は、古の畫工の作れる如く羽ある童に擔はれたるにはあらで、その肢體の上、その風に翻《ひるがへ》る衣裳の上に、許多《あまた》の羽ある童を載せつゝ、水の上を天翔《あまかけ》り給ふ。われはけふ始めて此畫を觀たるにあらず。されど此畫の我心を動かすこと今日の如きは未だ有らず。われはけふの群集のためにや、わが熱したる情のためにや知らねど、此畫中に限なき詩趣あるを認めたり。或は想ふにこは我が抒情の興多き心を畫中に投じ入れたるにはあらずや。そは兎まれ角まれ、此畫に對して此情をなすは、恐らくは獨り我のみならず、こは我に先だてる幾多の詩人の亦免れざるところなりしなるべし。
 險《けは》しきを行くこと夷《たひらか》なる如き筆力、望み瞻《み》る方嚮《はうかう》に從ひて無遠慮なるまで肢體の尺を縮めたる遠近法は、個々の人物をして躍りて壁面を出でしめんとす。昔基督の山上に在りて言語もて説き給ひし法(馬太《マタイ》五至七)は、今此大匠によりて色彩と形象ともて現されたるなり。吾人はラフアエロ[#「ラフアエロ」に傍線]と共に膝を此大匠の技倆の前に屈せんとす。此數多き預言者は、一つとして同じ人の石もて刻める摩西《モセス》に劣ることなし。何等の魁偉《くわいゐ》なる人物ぞ。堂に入るものゝ心目は先づこれがために奪はるゝなり。
 吾人はこゝに心目を淨め畢《をは》りて、さて頭を擧げて堂の後壁に向ふなり。下は大床より上は天井に至るまで、立錐《りつすゐ》の地を剩《あま》さゞるこの大密畫は、即ち是れ一|顆《くわ》の寶玉にして、堂内の諸畫は悉くこれを填《うづ》めんがために設けし文飾ある枠《わく》たるに過ぎず。これを世の季《すゑ》の審判の圖となす。
 判官たる基督は雲中に立てり。使徒と聖母とは不便《ふびん》なる人類のために憐を乞はんとて手をさし伸べたり。死人は墓碣《ぼけつ》を搖り上げて起《た》たんとす。惠に逢へる精靈は拜みつゝ高く翔《かけ》り、地獄はその※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]《あぎと》を開いて犧牲を呑めり。宣告を受けたる同胞の早く毒蛇に卷かれたるを、雲に駕せる靈の援《たす》け出さんとするあり。悔い恨める罪人の拳もて我額を撃ちつゝ、地獄の底深く沈み行くあり。天堂と地獄との間には、或は登り或は降る神將力士あまたありて、例の大膽なる遠近法もて寫し出されたり。優しく人を恤《めぐ》みがほなる天使、再會して相悦べる靈ども、金笛《きんてき》の響に母の懷に俯したる穉子《をさなご》など、いづれ自然ならざるなく、看るものは覺えず身を圖中に※[#「宀かんむり/眞」、第3水準1−47−57]《お》きて、審判のことばに耳を傾く。ミケランジエロ[#「ミケランジエロ」に傍線]は蓋し能くダンテ[#「ダンテ」に傍線]の歌ひしところを畫けるなり。
 恰も好し將《まさ》に沒せんとする夕日はそのなごりの光を最高列の窓より射込みたり。圖の下の端なる死人の起つあたり、艤《ふなよそひ》せる羅刹《らせつ》の罪あるものを拉《ひ》き去るあたりは、早や暗黒裡に沒せるに、基督とその周匝《めぐり》なる天翔《あまがけ》る靈とは猶金色に照されたり。日の入ると共に最後の燭は吹き滅《け》されて、讀誦は全く果てたり。暗黒は審判の圖の全面を覆へり。絲聲肉聲は又湧きて、世の季《すゑ》の審判の喜怒哀樂皆洋々たる音となりつゝ、われ等の頭上を漲り過ぐ。
 法皇は式の衣を脱ぎて、贄卓《にへづくゑ》の前に立ち、十字架を拜せり。金笛の響凄じく、「ポプルス、メウス、クヰツト、フエチイ、チビイ」の歌は起りぬ。低階の調に雜《まじ》る軟《やはらか》なる天使の聲は、男の胸よりも出でず、女の胸よりも出でず、こは天上より來れるなり。こは天使の涙の解けて旋律に入りたるなり。
 われはこれを聽きて、力づき甦《よみがへ》り、この頃になき歡喜は胸に滿ちたり。われはアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]を愛し、ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]を愛せり。この瞬時の愛はかの天上の靈の相愛するに殊《こと》ならざるべし。祈祷の我に與へざりし安慰は、今音樂にて我に授けられた
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