コに伏して、我唇をその冷《ひやゝか》なる石の足に觸れたり。憶ひ起せば、わがまだ穉《をさな》き時の心安かりしことよ。母の膝下《しつか》にて過す精進日《せじみび》は、常にも増して樂《たのし》き時節なりき。四邊《あたり》の光景は今猶|昨《きのふ》のごとくなり。街の角、四辻などには金紙銀紙の星もて飾りたる常磐木《ときはぎ》の草寮《こや》あり。處々に懸けし招牌《せうはい》には押韻《あふゐん》したる文もて精進食《せじみしよく》の名を列べ擧げたり。夕になれば緑葉の下に彩《いろど》りたる提燈《ひさげとう》を弔《つ》れり。雜食品賣る此頃の店は我穉き目に空想界を現ぜる如く見えにき。銀紙卷きたる腸詰肉を柱とし、ロヂイ[#「ロヂイ」に二重傍線]産の乾酪《かんらく》を穹窿としたる小寺院中にて酪《ブチルロ》もて塑《こ》ねたる羽ある童の舞ふさまは、我最初の詩料なりき。食品店の妻は我詩を聞きて、ダンテ[#「ダンテ」に傍線]の神曲なりと稱へき。當時われは不幸にして未だこの譽《ほまれ》ある歌人のいかに世を動かしゝかを知らず、又幸にして未だアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が如き才貌ある歌妓のいかに人を動かすかを知らざりしなり。嗚呼、われは奈何《いかに》してアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]を忘るゝことを得べきぞ。
 われは羅馬《ロオマ》の七寺を巡りて、行者《ぎやうじや》と偕《とも》に歌ひぬ。吾情は眞にして且深かりき。然るをこれに出で逢ひたるベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は、刻薄なる語氣もて我に耳語していふやう。コルソオ[#「コルソオ」に二重傍線]の大道にて戲謔能く人の頤《おとがひ》を解きしは誰ぞ。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が家にて即興の詩を誦《そら》んじ座客を驚《おどろか》しゝは誰ぞ。今は目に懺悔の色を帶び頬に死灰の痕を印して、殊勝なる行者と伍をなせり。汝はいかなる役をも辭せざる名優なるよ。此の如きは我が遂にアントニオ[#「アントニオ」に傍線]に及ばざるところぞといひぬ。吾友の言ふところは實録なりき。されど當時我を傷《やぶ》ること此實録より甚しきはあらざりしなり。
 精進《せじみ》の最後週は來ぬ。外國人は多く羅馬に歸り集《つど》ひぬ。ポヽロ[#「ポヽロ」に二重傍線]門よりもジヨワンニ[#「ジヨワンニ」に二重傍線]門よりも、馬車相驅逐して進み入りぬ。水曜日午後にはワチカアノ[#「ワチカアノ」に二重傍線]のシクスツス[#「シクスツス」に傍線]堂にて「ミゼレエレ」(ミゼレエレ、メイ、ドミネ、憐を我に垂れよ、主よの句に取りたるにて、第五十頌の名なり)の樂あり。われは樂を聽きて悶を遣らんがために往きぬ。聽衆は堂の内外に押し掛け居たり。前なる椅榻《こしかけ》には貴婦人肩を連ねたり。色絹、天鵝絨《びろうど》もて飾れる觀棚《さじき》の彫欄の背後《うしろ》には、外國の王者並び坐せり。法皇の護衞なる瑞西《スイス》隊は正裝して、その士官は※[#「(矛+攵)/金」、第3水準1−93−30]《かぶと》に唐頭《からのかしら》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《はさ》めり。この裝束は今若き貴婦人に會釋せるベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]には殊に好く似合ひたり。
 われ裏面より埒《らち》に近き處に席を占めしに、こゝは歌者の席なる斗出《としゆつ》せる棚に遠からざりき。背後には許多《あまた》の英吉利《イギリス》人あり。この人々は謝肉祭《カルナワレ》の頃|假粧《けはひ》して街頭を彷徨《さまよ》ひたりしが、こゝにさへ假粧して集ひしこそ可笑しけれ。推するにその打扮《いでたち》は軍隊の號衣《ウニフオルメ》に擬したるものならん。されど十歳|許《ばかり》の童《わらべ》までこれを着けたるはいかにぞや。その華美ならんことを欲することの甚しきを證せんがために、こゝに一例を擧げんに、其人の上衣は淡碧《うすみどり》にして銀絲の縫ひあり、長靴には黄金を鏤《ちりば》め、扁圓なる帽には羽毛連珠を着けたり。英吉利人のかゝる習をなしゝは、美しき號衣《ウニフオルメ》の好《よ》き座席を得しむる利益を知りたるためなるべし。我傍よりは笑を抑ふる聲洩れたり。されどわがそを可笑しと見しは、唯だ一瞬間なりき。
 老いたる僧官《カルヂナアレ》達は紫天鵝絨の袍の領《えり》に貂《エルメリノ》の白き毛革を附けたるを穿《き》て、埒の内に半圈状をなして列び坐せり。僧官達の裾を捧げ來し僧等は共足元に蹲《うづくま》りぬ。贄卓《にへづくゑ》の傍なる小《ちさ》き扉は開きぬ。そこより出でたるは、白帽を戴き濃赤色の袍を纏《まと》へる法皇なりき。法皇は交椅に坐したり。侍者等は香爐を搖り動したり。紅衣の若僧の松明《まつ》取りたるもの數人法皇と贄卓との前に跪《ひざまづ》けり。
 讀誦《どく
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