のまゝなる外國人と打ち雜《まじ》りて、高き低き棧敷を占めたり。平土間より舞臺へ幅廣き梯《はしご》をわたしたるが、樂人の群の座はその梯の底となりたり。舞臺には畫紙を貼《は》り、環飾《わかざり》紐飾を掛けて、客の來り舞ふに任せたり。樂人は二組ありて、代る代る演奏す。今は酒の神なるバツコス[#「バツコス」に傍線]とその妻なる女神アリアドネ[#「アリアドネ」に傍線]との姿したる人を圍みて、貸車の御者《ヱツツリノ》に扮したる男あまた踊り狂ふ最中なりき。われは梯を踏みてその群に近づき、引かるゝまゝに共に舞ひしが、心樂しく身輕きに、曲二つまで附き合ひて、夜更けたる後|塒《ねぐら》に歸りぬ。
 眠りしは短き間にて、翌朝は天氣好かりき。姫は今羅馬を立つにやあらむ。華かにして賑はしく、熱して騷がしかりし謝肉祭は、今我を殘して去りぬ。外に出でゝ風に吹かれなば、心寂しきけふを慰むるに足ることもやと思ひて、獨り街に立ち出でぬ。家々の戸は閉されたり。物賣る店もまだ起き出でざりき。昨日は人の波打ちしコルソオ[#「コルソオ」に二重傍線]の大道には、往き交ふ人|疎《まばら》にして、白衣に藍《あゐ》色の縁取りしを衣《き》たる懲役人の一群、霰《あられ》の如く散りぼひたる石膏の丸《たま》を掃き居たり。塵を積むべき車の轅《ながえ》には、骨立《ほねたゝ》したる老馬の繋がれつゝ、側なる一團の芻秣《まぐさ》を噛めるあり。とある家の戸口には、貸車の御者立ちて、あき箱あき籠あまた車の上に載せ、その上をば毛布もて覆ひ、背後に結び附けたる革行李の凹《くぼ》くなるまで鐵の鎖を引き締め居たり。この車は横街より出でたる、同じ樣に梱《こり》載せる車と共に去りぬ。ナポリ[#「ナポリ」に二重傍線]にや行くらん。フイレンチエ[#「フイレンチエ」に二重傍線]にや行くらん。耶蘇更生祭の來ん日まで、羅馬は五週間の長眠をなさんとするなり。

   精進日、寺樂

 事なくして靜に日を暮せば、その永さの常にもあらで覺えらるゝと共に、謝肉祭の間の珍らしかりし事、その事の中心をなせる姫が上のみ心頭に往來せり。墳墓の如き靜けさは日ごとに甚しくなりぬ。わが胸の空虚は書卷の能く填《うづ》むるところにあらざりき。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]はわが無二の友なり。然るに今はその音容に接することの厭《いと》はしくなれるぞ怪しき。嗚呼我等二人の間にはアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の立てるなり。縱《たと》ひ友を失はんも、彼君のためには惜からじと一たびは思ひぬ。されどつら/\思ひ返せば、友は我に先だちて姫と交を結びぬ。わが姫と相識ることを得しは、全く友の紹介の賜《たまもの》なり。われは友に對して、我が姫に運ぶ情の戀にあらず、藝術上の感歎なるを誓ひたり。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]はわが無二の友なり。われは今これを欺かんとす。悔恨の棘は我心を刺せり。されどわれは遂にアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]を忘るゝこと能はず。
 アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]を懷ふはアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の我に與へたる歡喜を懷ふなり。されどその歡喜をなしゝは昔日の事にして、今これが記念を喚《よ》び起せば、一として悲痛に非ざるものなし。譬へば亡人《なきひと》の肖像の笑へるが如し。その笑はたま/\以て我を泣かしむるに足る。學校にありしころ人の世途の難を説くを聞きては、或課題のむづかしき、或師匠の意地わるきなどに思ひ比べて、我も亦早く其味を知れりといひしことあり。今やその非なるを悟りぬ。われ若し能く此戀に克《か》つにあらずば、此力以て世途の難を排するに足るとはいふべからず。試に此戀の前途を思へ。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は尋常の歌妓に非ずして、その妙藝は現に天下の仰ぎ望むところなりと雖《いへども》、われ往《ゆ》いてこれに從はゞ、その形迹世の蕩子《たうし》と擇《えら》ぶことなからん。我友はこれを何とか言はむ。加之《しかのみなら》ず若し心術の上より論ぜば、我守護神たる聖母もこれよりは復《また》我を憐み給はざるべし。況《いはん》や此戀は果して能く成就せんや否や。我は口惜しきことながら、實に未だアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]の心を知らざりき。我は寺に往きて聖母の前に叩頭《ぬかづ》き、いかで我に己に克つ力を授け給はれと祈りて、さて頭を擧げしに、何ぞ料《はか》らむ聖母の面《おもて》は姫の面となりて我を悦ばせ又我を苦めむとは。我は縱《たと》ひ姫再び來んも、誓ひて復た逢はじとおもひ定めつ。
 我は嘗て古《いにしへ》の信徒の自ら笞《むちう》ち自ら傷《きずつ》けしを聞きて、其情を解せざりしに、今や自らその爲す所に倣《なら》はんと欲するに至りぬ。燃ゆるが如き我血を冷さんとて、我は聖母の像の
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