tイレンチエ[#「フイレンチエ」に二重傍線]の畫廊に往きて君とけふ物語れることを想ふべし。われは常に面白きことに逢ふごとに、我友のその樂を分たざるを恨めり。これも旅人の故郷を偲《しの》ぶたぐひなるべし。我は姫の手に接吻して、戲に。この接吻をばメヂチ[#「メヂチ」に傍線]のヱヌス[#「ヱヌス」に傍線]に傳へ給へ。姫。さては我にとてにはあらざりしか。我は決して私《わたくし》することなかるべしといひぬ。我は分れて一間を出でしとき夢みる人の如くなりき。戸の外にて家の媼《おうな》に出で逢ひ、心の常ならぬけにやありけむ、われその手を取りて接吻せしに、これは善き性《さが》の人なるよとつぶやくを聞きつ。
 最後の謝肉祭の日をば、飽く迄樂まむと思ひぬ。唯だアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]と別れむことは、猶|現《うつゝ》とも覺えず。又逢はむ日は遙なる後にはあらで、明日の朝にはあらずやとおもはる。假面をば被りたらねど、「コンフエツチイ」の粒|擲《な》ぐることは、人々に劣らざりき。道の傍なる椅子には人滿ちたり。家ごとの窓よりも人の頭あらはれたり。車のゆきかふこと隙間なく見ゆるに、その餘せる地にはうれしげなる面持したる人肩|摩《す》るほどに集へり。歩まむとする人は、車と車との隙を行くより外すべなし。音樂の聲は四面より聞ゆ。車の内よりも「イル、カピタノ」(大尉)の歌洩りたり。陸に海に立てたる勳《いさをし》とぞ歌ふなる。腰に木馬を結びたる童あり。首と尾とのみ見えて、四足のところは膝かけの色ある巾《きれ》にて掩《おほ》はれたり。童の足二つにて、馬の足の用をなせるなり。かゝるものさへ車と車との間に入れば、混雜はまた一入《ひとしほ》になりぬ。われは楔《くさび》の如く車の間に介《はさ》まりて、後へも先へも行くこと叶はず。後なる車|挽《ひ》ける馬の沫《あわ》は我耳に漑《そゝ》げり。わがこれにえ堪へで、前なる車の踏板に飛び乘りたるを、これに乘れる寢衣《ねまき》着たる翁とやさしき花賣娘とは、早くも惡劇《いたづら》のためよりは避難のためと見て取りぬと覺しく、娘は輕く我手背を敲《たゝ》き、例の玉のつぶて二つ投げかけしのみなれど、翁の打つ飛礫《つぶて》は雨の如くなりき。娘もこの攻撃を興あることにや思ひけん、遂には翁の所爲に傚《なら》ひて、持てる籠の空《むな》しくならんとするをも厭はで唯だ打ちに打つ程に、我衣は斑々として雪を被《かぶ》れる如くぞなりぬる。われはこの地點を守りかねて、飛びおるれば、戲奴《おどけやつこ》にいでたちたる男走り來て、手に持てる采配もて、我衣を拂ひ呉れたり。
 暫し避けて佇《たゝず》む程に、さきの車又かへり路に我を見て、再び「コンフエツチイ」を投げかけたり。わが未だ迎へ戰ふに遑《いとま》あらざる時、砲聲地に震ひて、くらべ馬始まるをしらせしかば、車は皆狹き横道に入りて、翁と娘とも見えずなりぬ。二人は我を識りたりと覺し。奈何《いか》なる人にかあらん。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は今日街に見えざりき。かの翁は其人にて、娘はアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]にはあらずや。
 我は街の角に近き椅子に倚りぬ。砲は再び響きて、競馬は街のたゞ中をヱネチア[#「ヱネチア」に二重傍線]の廣こうぢさして馳せゆき、荒浪の寄するが如き群衆はその後に隨ひぬ。わが踵《くびす》を旋《めぐら》して還《かへ》らむとするとき、馬よ/\と呼ぶ聲俄に喧《かまびす》しく、競馬の内なる一頭の馬、さきなる埒《らち》にて留まらず、そが儘街を引きかへし來れるに、最早馬過ぎたりと心許しゝ群衆は、あわて騷ぐこと一かたならず。吾心頭には稻妻の如く昔のおそろしかりしさま浮びたり。瞬《またゝ》くひまに街の兩側に避けたる人の黒山の如くなる間を、兩脇より血を流し、鬣《たてがみ》戰《そよ》ぎ、口より沫《あわ》出でたる馬は馳せ來たり。されど我前を過ぐるとき、いかにかしけむ銃もて撃《うた》れたる如く打ち倒れぬ。怪我せし人やあると、人々しばしは安き心あらざりしが、こたびは聖母やさしき手を信者の頭の上に擴げ給ひて、一人をだに傷け給はざりき。
 危さの容易《たやす》く過ぎ去りしは、祭の興を損ぜずして、却《かへ》りて人の心を亂し、人の歡を助けたり。これよりは謝肉祭の大詰なる燭火の遊(モツコロ)始まらんとす。今まで列を成したりし馬車は漸く亂れて、街上の雜※[#「二点しんにょう+鰥のつくり」、第4水準2−89−93]《ざつたふ》は人聲の噪しさと共に加はり、空の暗うなりゆくを待ち得て、人々持たる燭に火を點せり。中には一束を握りて、こと/″\く燃せるもあり。徒《かち》なるも車なるも燭を把《と》りたるに、窓のうちに坐したる人さへ火持たぬはあらねば、この美しき夜は地にも星ある如くなり。家々より街の上へさし出せる火には、い
前へ 次へ
全169ページ中57ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
アンデルセン ハンス・クリスチャン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング