に謝する色現れつれ、かしこにては思出さるゝ暇なからん。さはあれ一個の婦人にのみ心を傾くるは癡漢《ちかん》の事なり。羅馬には女子多し。野に遍《あまね》き花のいろ/\は人の摘み人の采《と》るに任するにあらずや。
この夕我はベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]と共に芝居に往きぬ。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は再びヂド[#「ヂド」に傍線]となりて出でぬ。その歌、その振《ふり》、始に讓らざりき。完備せるものゝ上には完備を添ふるに由なし。姫が技藝はまことに其域に達したるなり。こよひは姫また我理想の女子となりぬ。その本讀の曲にての役《やく》、その平生の擧動は、例へば天上の仙の暫くこの世に降りて、人間の態をなせるが如くぞおもはるる。その態《さま》も好し。されどヂド[#「ヂド」に傍線]の役にては、姫が全幅の精神を見るべし。姫がまことの我《われ》を見るべし。萬客は又狂せり。想ふにこの羅馬の民のむかし該撤《カエザル》とチツス[#「チツス」に傍線]とを迎へけん歡も、おそらくは今宵の上に出でざるならん。曲|畢《をは》りて姫は衆人に向ひて謝辭を陳《の》べ、再びこゝに來んことを約せり。姫はこよひもあまたゝび呼出されぬ。歸途に人々の車を挽けるも亦同じ。我もベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]と共に車に附き添ひて、姫がやさしき笑顏を見送りぬ。
謝肉祭の終る日
翌日は謝肉祭《カルナワレ》の終る日なりき。又アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が滯留の終る日なりき。我は暇乞《いとまごひ》におとづれぬ。市民がその技能に感じて與へたる喝采をば、姫深く喜びたり。フイレンチエ[#「フイレンチエ」に二重傍線]はその自然の美しき、その畫廊の備《そなは》れる、居るに宜《よろ》しきところなれど、再生祭の後こゝに歸らんことは、今より姫の樂むところなり。姫はかしこの景色を物語りぬ。アペンニノ[#「アペンニノ」に二重傍線]の森林、豪貴の人々の別莊の其間に碁布せるピアツツア、デル、グランヅカ[#「ピアツツア、デル、グランヅカ」に二重傍線]、其外美しき古代の建築物など、その言ふところ人をして目のあたりに見る心地せしめき。
姫のいはく。我は再び畫廊に往かむ。我に彫刻を喜ぶこゝろを生ぜしめしは彼處《かしこ》なり。プロメテウス[#「プロメテウス」に傍線]が死者に生を與ふるに同じく、人間の心の偉大なるを、わが悟りしはかしこなり。彼廊に一室あり。そは最も小なる室にして、わが最も好める室なり。今若し君をかしこに在らしむることを得ば、君は能くわがむかしの喜を解し、又能くわが今日そを想起《おもひおこ》す喜を解し給はん。この八角に築きたる室には、實に全廊の尤物《いうぶつ》を擢《ぬきん》でゝ陳列せり。されどその尤物の皆けおさるるは、メヂチ[#「メヂチ」に傍線]のヱヌス[#「ヱヌス」に傍線]の石像あればなり。かくまでに生けるが如き石像をば、われこの外に見しことなし。その目は人を視る如し。あらず。人の心の底を觀る如し。石像の背後には、チチアノ[#「チチアノ」に傍線]の畫けるヱヌス[#「ヱヌス」に傍線]の油畫二幅を懸けたり。その色彩目を奪ふと雖《いへども》、こゝに寫し得たるは人間の美しさにして、彼石の現せるは天上の美しさなり。ラフアエロ[#「ラフアエロ」に傍線]がフオルナリイナ[#「フオルナリイナ」に傍線](作者意中の人)は心を動すに足らざるにあらず。されどヱヌス[#「ヱヌス」に傍線]の生けるをば、われあまたゝび顧みざること能はず。否々、おほよそ世に彫像多しと雖、いづれか彼ヱヌス[#「ヱヌス」に傍線]の右に出づべき。ラオコオン[#「ラオコオン」に傍線]にてはまことに石の痛楚《つうそ》のために泣くを見る。しかも猶及ばざるところあり。獨り我ヱヌス[#「ヱヌス」に傍線]と美を※[#「女+貔のつくり」、55−中段−5]《くら》ぶるは、君も知り給へるワチカアノ[#「ワチカアノ」に二重傍線]のアポルロン[#「アポルロン」に傍線]ならん。その詩神を摸したる力量は、彼ヱヌス[#「ヱヌス」に傍線]に於きてやさしき美の神を造れるなり。我答へて。君の愛《め》で給ふ像を石膏に寫したるをば、我も見き。姫。否、われは石膏の型《かた》ばかり整はざるものはなしと思へり。石膏の顏は死顏なり。大理石には命あり靈あり。石はやがて肌肉となり、血は其下を行くに似たり。フイレンチエ[#「フイレンチエ」に二重傍線]まで共に行き給はずや。さらばわれ君が案内すべし。我は姫が志の厚きを謝して、さていひけるは、さらば再生祭の後ならでは、又相見んこと難かるべしといふ。姫こたへて。さなり。聖ピエトロ[#「ピエトロ」に傍線]寺の燈を點し、烟火戲《ジランドラ》を上ぐる折は、我等が相逢ふべき時ならん。それまでは君われを忘れ給ふな。我はまた
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