轤も、羅馬は猶その古き諸神の像と共に、その無窮なる美術と共に、世界の民に崇《あが》められん。東よりも西よりも、又天寒き北よりも、美を敬《うやま》ふ人はこゝに來て、羅馬よ、汝が威力は不死不滅なりといはん。この段の畢《をは》るや、喝采の聲は座に滿ちたり。獨りアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は靜座して我面を見たるが、其姿はアフロヂテ[#「アフロヂテ」に傍線]の像の如く、其|眸《ひとみ》には優しさこもれり。我情は猶輕き詩句となりて、唇より流れ出でたり。詩境は廣き世界より狹き舞臺に遷《うつ》れり。こゝに技倆すぐれたる俳優あり。その所作、その唱歌は萬客の心を奪へり。歌ひてこゝに至りたるとき、姫は頭を低《た》れたり。そは我上とおもへばなるべし。座中の人々も、亦我敍述する所によりて我意の在るところを認めしならん。かゝる俳優も歌|歇《や》み幕落ちて、喝采の聲絶ゆるときは、其藝術は死なん。死して美き屍《かばね》となりて、聽衆の胸に※[#「やまいだれ+(夾/土)」、第3水準1−88−54]《うづ》められたるのみならん。されど詩人の胸は衆人の胸に殊なり。譬へば聖母の墓の如し。こゝに※[#「やまいだれ+(夾/土)」、第3水準1−88−54]《うづ》めらるゝものは、悉く化して花となり香となり、死者は再びこれより起たん。しかしてその詩は一たび死したる藝術をして、不死不滅の花となりて開かしめん。我目はアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が顏を見やりたり。我心は吐き盡したり。われは起ちて禮をなしたるに、人々は我を圍みて謝したり。姫は我を視て、君は深く我心を悦ばしめ給ひぬといひぬ。我は僅に唇をやさしき手に押し當てたり。
 そも/\劇は虹の如きものなり。彼も此も天地の間に架したる橋梁なり。彼も此も人皆仰いで其光彩を喜ぶ。然はあれどその※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2−1−57]忽《しゆくこつ》にして滅するや、彼も此も迹《あと》の尋ぬべきなし。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]とアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が技《わざ》とは、其運命實にかくの如し。姫はわがこれを不朽にせんとする心を、この時能く曉《さと》り得たり。姫が我を解することの斯く深かりしことは、當時我未だ知ること能はざりしが、後に至りて明かになりぬ。
 我は日ごとに姫をおとづれき。わづかに殘れる謝肉祭の日はいつしか夢の如くに過ぎ去りぬ。されどこの間われは遺憾なくこのまつりの興を受用し盡せり。そはアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が我に賦《ふ》したる樂天主義の賜《たまもの》なりき。或時ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]のいふやう。汝はやうやくまことの男とならんとす。われ等に變らぬ眞の男とならんとす。されど汝はまだ唇を杯の縁にあてしに過ぎず。我は明かに知る、汝が唇の未だ曾て女子の口に觸れず、汝が頭の女子の肩に倚《よ》らざるを。今若しアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]まことに汝を愛せばいかに。我。思ひも掛けぬ事かな。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は我が僅に能く仰ぎ見るものゝ名にして、我手の屆くべきものゝ名にあらず。彼。あらず。高くもあれ低くもあれ、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]とは女子の名なり。汝は詩人にあらずや。詩人は測るべからざる性あるものなり。その女子の胸の片隅を占むるや、その奧に進むべき鍵は、詩人の手にあるものぞ。我。姫がやさしさ、賢《さか》しさ、姫が藝術のすぐれたるをこそ慕へ。これに戀せんなどとは、われ實に夢にだにおもひしことなし。彼。汝が眞面目なるおも持こそをかしけれ。好し/\、我は汝が言を信ぜん。汝は素《もと》より蛙なんどに等しき水陸兩住の動物なり。現《うつゝ》の世のものか、夢の世のものか、そを誰か能く辨ぜん。汝はまことに彼君を愛せざるべし、わが愛する如く、世の人の戀するときに愛する如く愛せざるべし。されど汝が姫に對する情果して戀に非ずば、今より後彼に對して面をあかめ、火の如き目《ま》なざしゝて彼に向ふことを休《や》めよ。そは彼君のためにあしかりなん。傍より見ん人の心のおもはれて。されど姫はあさて此地を立つといへば、最早その憂もあらざるべし。基督再生祭の後には歸るといへど、そも恃《たの》むべきにはあらず。これを聞きたるとき、我胸は躍りぬ。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]を見るべからざること五週に亙《わた》るべし。彼君はフイレンツエ[#「フイレンツエ」に二重傍線]の芝居に傭《やと》はれ、斷食日の初にこゝを立つなりとぞ。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は語を繼ぎていはく。かしこに至らば崇拜者の新なる群は姫がめぐりに集ふべし。さらば舊きは忘れられん。譬へば汝が即興の詩の如きも、その時こそ姫のやさしき目なざしに、
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