フ禮を受くるもの殆ど我一人なる如くおもはれき。我は我聲の一群を左右する力ありて、譬へば靈魂の肢體を役するが如くなるを覺えき。事果てて後家に歸りしが、身は唯だ夢中に起ちてさまよひありく、怪しき病ある人の如くにして、その夜枕に就きての夢には始終アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が我歌を喜べるさまをのみ見き。
 翌日姫をおとづれぬ。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]、昨夜の火伴《つれ》の二人三人は我に先だちて座にありき。姫のいはく。きのふ絃歌の中にて「テノオレ」の聲のいと善きを聞きつといふ。我面はこの詞と共に火の如くなりぬ。それこそアントニオ[#「アントニオ」に傍線]なれと告ぐるものあり。姫は直ちに我を引きて「ピアノ」の前に往き、倶《とも》に歌へと勸む。我は法廷に立てるが如き心地して、再三|辭《いな》みたるに、人々側より促して止まず、又ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は聲を勵まして、さては汝切角の姫の聲をさへ我等に聞せざらんとするかと責めたり。姫に手を拉《ひ》かれたる我は、捕《とらへ》られし小鳥に殊ならず。縱《たと》ひ羽ばたきすとも、歌はでは叶はず。姫の歌はんといふは、わが知れる雙吟《ヅエツトオ》なり。姫は「ピアノ」に指を下して、先づ聲を擧げ、我は震ひつゝもこれに和したり。この時姫の目なざしは、我に膽々《たん/\》とさゝやきて、我をその妙音界に迎ふる如くなりき。わが怯《おそれ》は已みて、我聲は朗になりぬ。一座は喝采を吝《おし》まず、かの猶太おうなさへやさしげに頷きぬ。
 このときベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は汝はいつも人の意表に出づる男ぞとつぶやきて、さて衆人に向ひ、吾友には猶かくし藝こそあれ、そは即興の詩を作ることなり、作らせて聞き給はずやといひき。喝采に醉ひたる我は、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が一言の囑《たのみ》を待ちて、大膽にも即興の詩を歌はんとせり。この技は人と成りての後未だ試みざるものなるを。我は姫の「キタルラ」を把《と》りぬ。姫は直に不死不滅といふ題を命ぜり。材には豐なる題なりき。しばしうち案じて、絃を撥《はじ》くこと二たび三たび、やがて歌は我肺腑より流れ出でたり。詩神は蒼茫たる地中海を渡り、希臘《ギリシア》の緑なる山谷の間にいたりぬ。雅典《アテエン》は荒草斷碑の中にあり。こゝに野生の無花果樹《いちじゆく》の摧《くだ》け殘りたる石柱を掩《おほ》へるあり。この間には鬼の欷歔《ききよ》するを聞く。むかしペリクレエス[#「ペリクレエス」に傍線]の世には、この石柱の負へる穹窿の下に、笑ひさゞめく希臘の民往來したりき。そは美の祭を執《と》り行へるなり。ライス[#「ライス」に傍線](名娼の名)の如く美しき婦人は環飾を取りて市に舞ひ、詩人は善と美との不死不滅なるを歌ひぬ。忽ちにして美人は黄土となりぬ。當時の民の目を悦ばしたる形は世の忘るゝ所となりぬ。詩神は瓦礫《ぐわれき》の中に立ちて泣くほどに、人ありて美しき石像を土中より掘り出せり。こは古の巨匠の作れるところにして、大理石の衣を着けて眠りたる女神なり。詩神はこれを見て、さきの希臘の美人の俤《おもかげ》を認めき。あはれ古人が美をかう/″\しき迄に進めて、雪の如き石に印し、これを後昆《こうこん》に遺したるこそ嬉しけれ。見よや、死滅するものは浮世の權勢なり。美いかでか死滅すべき。詩神は又波を踏みて伊太利に渡り、古の帝王の住みつる城址に踞《きよ》して、羅馬の市を見おろしたり。テヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]河の黄なる水は昔ながらに流れたり。されどホラチウス・コクレス[#「ホラチウス・コクレス」に傍線]が戰ひし處には、今|筏《いかだ》に薪と油とを積みてオスチア[#「オスチア」に二重傍線]に輸《おく》るを見る。されどクルチウス[#「クルチウス」に傍線]が炎火の喉《のんど》に身を投ぜし處には、今牧牛の高草の裡《うち》に眠れるを見る。アウグスツス[#「アウグスツス」に傍線]よ。チツス[#「チツス」に傍線]よ。汝が雄大なる名字《みやうじ》も、今は破れたる寺、壞れたる門の稱に過ぎず。羅馬の鷲、ユピテル[#「ユピテル」に傍線]の猛《たけ》き鳥は死して巣の中にあり。あはれ羅馬よ。汝が不死不滅はいづれの處にか在る。鷲の眼は忽ち耀《かゞや》きて、その光は全歐羅巴を射たり。既に倒れたる帝座は、又起ちてペトルス[#「ペトルス」に傍線]の椅子(法皇座)となり、天下の王者は徒跣《とせん》してこゝに來り、その下に羅拜せり。おほよそ手の觸るべきもの、目の視るべきもの、いづれか死滅せざらん。されどペトルス[#「ペトルス」に傍線]の刀いかでか※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]《さび》を生ずべき。寺院の勢いかでか墮つる期《ご》あるべき。縱《たと》ひ有るまじきことある世とな
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