出は芸人も変へたが、客の狙ひ所も一変してしまつた。今まではさういふものから縁遠かつた人たちを吸収しようとしてゐる事実。それが、ポピュラーなラジオやレコードでよりよく煽られてゐるのである。
昨夜私ははじめて東宝の名人会に出かけて見たが(名人会の氾濫、何と名人の一世に瀰漫してゐることか、まことに泰平の御世である)私はなるほどと感心した。椅子は番号がついて、指定席の前売切符もあるとのこと。椅子に腰かけて落語を聞く気分なぞはどうかと、プログラムを見れば親切にちやんと話の題が日割になつて出てゐるし、ベルが鳴つてワリドンが引かれると(おお、ベルが鳴つて)芸人の名札が出る仕掛けになつてゐる。前後左右、丸ノ内的な人たちばかりである。れいの馬風が演説をつかふやうに立つて演じてゐる。習慣の問題であらうか、坐つて足をくづさないとやはりどうにも、聞きにくかつた。最も、かうした場所にぴつたりしてゐるのは徳川夢声の漫談で、これは努力なしに気持よくついて行けた。落語、講釈ともに、何かさうざうしく、話のすきまを虚ろな風の吹く感じ。出演人数が普通の席よりは少くみんな熱心にたつぷりと、いつもは枕を振るだけでお茶をにごしてゐる芸人も、きりまでまつたうに御機嫌をうかがふのであつたが、間がつかみにくいといつた感じ。味の消失。
しかし、この合理主義が落語界を甦生させたとなればこんなありがたいことはないが、そんなにうまく行くかどうか。吉本的にあつては、むしろ、落語から外れてゆくものこそが客と大衆とをつかんでゐるのである。落語家が、君たちは漫才の助けをかりてやつと息を吐けるやうになつたといはれたら、どう思ふか。それを聞きたい。
吉本的、東宝的いづれにしても、落語とその雰囲気を保存維持するといふよりは、現代的に変改することによつて、落語でなくして行くのである。それが当然の道行きであるからには、「落語」はあきらめねばならぬ。
落語界はいろんな風に紛糾してゐるさうである。睦、協会、東宝、芸術協会なぞと別れてゐると聞いたが、今はどうなつてゐるのだらう。各※[#二の字点、1−2−22]の寄席に、この三派四派の顔ぶれがごつちやになつてゐるところを見れば、妥協和解の道が開かれたのだらうか。落語界が自滅して行くのは、かうした内紛からだと誰かがいつてゐたが、私は必ずしもさうは思はぬ。三遊、柳の昔の華々しい対立は望めぬとして
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