する途だとしてゐるのだが、如何だらう。落語が現代的に変改が加へられて来たら、歌舞伎の当世風演出と同じくナンセンスなのだ。三語楼の芸風がある時代インテリに大受けして人気をひろめたものの、いかに落語界を毒して、結局は落語の凋落をいかに早めたかを省るがいい。その弟子の金語楼もまた師匠に輪をかけて俗悪な大向う受けばかりねらひ、この二人の出現が本当は落語の衰微を来したといふのは逆説でも何でもない。三語楼は近頃渋さをねらつてゐるが、それもまるで身についてゐないのを見れば正道を行かぬ芸人の気の毒さ(これは何も芸人に限らないことであらうが)を眼の前にして憂鬱至極である。
蝶花楼馬楽なぞは、この現代的感覚と落語の正味との矛盾に最も悩んでゐるのではないか。真実の市井人であり、落語の伝統に忠実でありながら、彼の生活の中へ流れ込む時代思潮との相剋に苦しんでゐる一人ではないか。鈴々舎馬風もこの二つのギヤツプを埋め得ないため、あんな風に、先輩落語家の物真似でその日を糊塗してゐるやうだ。彼の高座に私は悲劇を感ずる。彼を分析すれば興味ある結果が得られるやうな気がする。
落語を晏如としてやつてゐられなくなつた落語家。――これが今日における落語の描いてゐる運命である。そんな時に、寄席復興などといふことは何であらう。そこには一種の反動的な気勢が働いてゐるのは誰にでも指摘できるところであらう。前進を阻まれた気持が前時代の残存物へ向けられるといふこと。これは、その残存物へ安易な郷愁に似たものを感ずるだけで、必ずしも理解できるといふことではない。十分な理解は、その生活環境からいつても、すでに不可能になつてゐるのだ。たとへば、円生はいいね、とか桂文楽(この人は天才である)は巧いとか寄席で囁いてゐるのは、どこまで信用していい声か些か眉唾物である。この人たちは、それよりも、やはりどの席にも加へられはじめた漫才やあくどいえせ江戸つ子振りを売物にする三亀松などの方に、手もなく、もつと悦んで、げらげらと笑ひこけるのだ。
(ちなみに逆説的にいへば、今日の江戸つ子なんてものはみなえせ江戸つ子である。本年八十歳にしてなほ高座に生きる小勝にしてからが、その誹りを免れぬ)
つまり簡単にいへば、あこがれと擬態としての復古趣味があるだけなのだ。
それから、もう一つの寄席復興の原因は、大阪式経営方法の浸潤であらう。吉本、宝塚の進
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