も、各※[#二の字点、1−2−22]摩擦しあつて、残んの芸を磨くのも、散り際の花に似た意気を見せて面白いと思ふ。席に縄張りなくピツクアツプが自在だと落語の精神を忘れた泥くさい芸人だけが売れて行くといふ現象を来たすこともあらう。そんな連中が幅をきかすよりは仲間うちの研究会で技術を競ひあつて、巧拙の順をはつきりした方がいいのだ。かういへば、ギルド的な精神を高調することになるのだが、落語界は元来がそのギルド組織にぴつたりしてゐるところではないか。だから、その時代的な特性をはつきり発揮してゐる方が、そのものらしくていいのだ。とはいふものの、それが資本主義の力でくづれて行くのも事実である。とすればどうなるか。繰りかへすやうに、落語は滅びると認識することが落語を愛することなのだ、また反対に、落語を愛するとはその滅びることをはつきり考へることなのだ。なまじ現代について行かうとはしない覚悟と決意がなくてはならぬ。
私は芸人が楽屋裏で、どんな生活をしてゐるか知らぬ。よくそこでは猥談より以外には語られたことがなく、不真面目さといふは愚か、ますます時勢におくれた態度より見出されぬと耳にする。些か反語を弄しすぎるやうだが、私は寧ろ、それでいいと考へるのだ。時勢にうとい方がいい。いつかまだ吉本が今日のやうに東京興行界を席巻しない以前、早くもそこへ身売りして行つた芸人に芸人魂のあるのはゐないと放言したことがある。金語楼、小文治、山陽、三亀松、かうならべただけで、心ある人はうなづくだらう。芸人としての意気地や義理人情なぞは、もとより下らないものだ。しかし、それさへ持たぬ芸人には信用できない。
おそかれ早かれ、資本のもとに芸人と雖も統制されて行くのはいふまでもない。だから、彼らの方が聡明で先覚者なのかも知れない。だが、と私はいひたいのだ。さうした資本と強い者に抗する気持に、芸人としての本領があつた。その古さが生命なのだ。それを、色々と押しつめられて屈服して行くのは仕方がないが、さつさと軍門に下つて楽にならうといふのは賛成出来ない。今は、さうした気魄がどれだけ残つてゐるか疑問だから、かう書いて来たもののすべては愚痴である。
いつだつたか、まだ金車があつた頃、可楽が高座に上つた。芸者を二、三人つれた成金的が、上等席に来てゐたが、次から次へと芸人にいやらしい弥次をとばして面白がつてゐた。客も不愉快
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