れまでゐた息子の家を中学生のやうな昂奮と決心とで、少しばかりの小遣銭を持つて、飛出して婆さんのところへやつて来たわけである。
息子の家にゐるのが彼の苦痛であつたのは、何も息子夫婦が彼を虐待《ぎやくたい》したからでもなく、物質的に苦労させたからでもない。それどころか、彼らは老人をいたはり、豊富に着せ、食はせてゐた。何故ならば、息子は仲買人であつて長距離のも含めて電話を三本も持つてゐるやうな物持であつたからだ。だけれど、爺さんには何か物足りないものがあつた。嫁は亭主の父親としてつくしてくれるだけではないか。それにはむしろ利己的なものがある。息子は仕事にかまけて、金に追はれてゐる。老人が生活のうちに欲しいものは誰も考へてくれず、与へてもくれない。それは愛情であつた。
その親身な愛情を彼は今、最近の知合の他人のうちに見つけ出してゐる。彼はその中に浸り、気持の結ぼれを揉みほぐしてゐる。
婆さんも彼を得たことを悦んでゐる。そこで、つらいことではあらうが、爺さんがあんなにも好きな義太夫の寄席へも、ひよつとして息子の家から探しに来ないものでもないと、断然行くことを禁じて了つた。そして、日本物の活動写真か、布ぎれ一枚だけが舞台装置である安歌舞伎を見ることを彼にすすめるのであるが、爺さんも、そのことをもつともと思つて、子供の遊び友だちになつてやつたり、それが寝て了ふと、公園をぶらりと歩いて日本酒を一本だけ飲んで帰ると云ふ風である。そして、横びんからつづいて銀色のヒゲのはえてゐる顔を、首すぢまでも真赤にして、今晩は、とおとなしく部屋に入つて来るのである。
女の子が学校へ行くやうになつてから、朝早く起きる必要があるので、彼は考へて眼ざまし時計を買つて来た。それは、指定の時刻が来ると、「煙も見えず雲もなく」をうたひ出す小型のものである。――それを、七時のところに眼ざましの針を廻してゐると、茶を入れてのんでゐた婆さんは云ふのであつた。
その言葉は若い女が情夫に対して云ふやうな意味合のもので、どんなことがあつても、自分たちから離れないでくれ、しかし、息子さんは探偵を使つて私たちのところにあなたがゐることを嗅ぎつけることができるかも知れぬ、それが私は心配だ、と云つたのである。
「家から迎へに来ても帰らない? 爺さん、本当に帰つちやダメですよ」と、艶のある声で云つたのである。
すると、爺さんは、自分が今どんなに居心地よくゐるかと云ふことを語つて、決して帰宅はしない、死水はこちらでとつて貰ふ決心でゐると云つてきかせた。そして、近頃は新聞を見ても広告欄には全然眼を触れないやうに努めてゐる。何故かと云へば、そこに「父居所を知らせ」とかその他の巧い文句で彼を探す広告が出てゐたら、魔がさして、こちらを離れて了はないものでもないからである、と附加へるのであつた。
これらの対話は、聞耳を立ててゐたヒステリーの牛太郎の女房が、次の爺さんの述懐と婆さんの同情と共に、みんなに披露して、哄笑《こうせう》したのであるが、何もをかしがることはないのである。
婆さんは爺さんの今までの女との交渉なぞを質問したりした。爺さんは淡泊に答へて、三十の時に女房に死別れてからは、余り接触がないと云つて、婆さんを安心させた。その女房は「早発性何とか云ふ気違ひになつてね、狂ひ死しましたがね。医者はあまり気苦労がすぎたからだと云つてたが。――当時、わたしたちの貧乏は随分はげしかつたので、貧乏があいつを殺したんでせう、きつと」
この言葉が終るか終らぬうちに、爺さんは驚かされて了つた。隣の部屋できいてゐた牛太郎の女房も驚いた、と云つた。それは、突然、婆さんが泣き出したからであつた。婆さんは泣きながら云つた。
「わかりますよ、わかりますよ」それから嗚咽《をえつ》で声を震はせて――「貧乏がすぎて気が狂つて、それで若死して――お神さんの気持も、その時のあなたの気持も、わたしにはよく分りますよ」
それから二人とも黙つて了つた。爺さんは階下にわざわざ下りて行くのが大変なので、蒲団の裾の方に尿瓶《しびん》が置いてあるが、そこで小便をした。それから、褐色の斑点の出来てゐる太い腕を拱《こまね》いて横になつたが、――そのまま、永い間眠れなかつた。
爺さんは眼ざといので、いつも六時前にはさめるのであつた。だから、本当を云へば、眼ざまし時計なぞは要らないのである。しかし、彼は窓際から射して来る白々とした朝の光のうちに、枕もとの時計の針が廻つて七時になるのを待つてゐた。もう追つけうたひ出すぞ、と考へてゐると、チクタクの音を消して、突然、時計は陽気に「煙も見えず、雲もなく」と音楽を奏しはじめた。爺さんは安心したやうな表情で、横に枕を外して寝てゐる女の子を揺り動かした。
「さア、チイ坊や、時計がうたつてるから起きるんだよ、チイ坊、お起きよ、学校だよ」と、朝で痰がのどにたまつてゐるので、皺嗄《しわが》れた声を出して、彼は云つた。
ちやうど、この時刻に隣り部屋の女房は寝つく習慣なのであるが、毎朝、眼ざまし時計に眠りを妨げられることになつて了つた。もちろん、今までにだつて、彼女の昼寝をかき乱すものがあつたのである。それは四号室の蓄音器である。
そこにはカフェーの女給が情夫と一しよに住んでゐるのだが、男はしよつちゆう家をあけて他処《よそ》に寝泊りしてゐる。それは他に女をこしらへるからである。
女は店に出る前にきつと数枚のレコードをかけてきく。よほどの音楽好きと見えるが、それもゆつくり聴き楽しむと云ふ風には見えない。一枚を半分ばかりでよすと、次には騒々しいのをかけて見、それも途中でよして、他のとかへると云つた有様である。彼女はいらいらするので音楽を聴き、そのために一層いらいらし出すやうである。だから、暇のある女房たちが――ほら、ヒスがはじまつたよ、と云ふのも当つてゐないこともない。
男は呉服物のせり売りの桜[#「桜」に傍点]をやつてゐる。色事師で――ニキビが少し眼立つが、色白の好い男である。アパートの主人の細君に云ひ寄つたのはこの男だ。あの場合は、奇妙な理由から失敗したが、そんなことは今までに殆どなかつたと云つてよい。しかし、如何《どう》して女と云ふものはこんなに脆《もろ》いかと云ふことを知ることは人生の上で大きな損をしたことだと彼は考へてゐる。そして、このことは彼を憂鬱にするが、情勢として女漁《をんなあさ》りに耽《ふけ》るより仕方がない。だから、彼の場合は、女に選び好みの感情は失はれてゐる。どの女も一様に見えるとすれば、勢ひさうなるではないか。――この人生の損は、益々彼にあつて、拡がつて行くものと見られる。何故ならば、女は定評のある色魔に対しては、一種の親愛な情を持つし、好んで接近して来るからである。それは、主として快楽が一切無責任だと予《あらかじ》め分つてゐることと、女同士の競争意識が掻き立てられるに拘《かかは》らず容易にその男が獲得できると云ふ安心からであらう。――
このことは、アパートの暇のある女房たちの間にも起つてゐる。彼女たちは彼に誘惑されることを待ち、しかし、口では、アパート一番の好い男であるが、誰でも構はず関係するなんて嫌なこつた、それが玉に瑕《きず》だなぞと云つてゐる。
そして、四号室の女給を嫉妬するわけだが、それは全然意識しないで、彼女の悪口を盛んに云ふのである。女給の女房れんに評判の悪い原因は主としてこの点にある。
――かうした人生の損をしてゐる彼はもう一つ悲劇を背負つてゐる。それは、彼が女給である情婦を心から愛して了つたことである。女を全体として信用できない男が、一人の女を愛するとは!
彼は他の女との交渉中に、烈しく情婦の女給に対して嫉妬を感じることがある。この脆い女と同性である情婦も亦、このやうな姿態を他の男に示すのではないか、と云ふ考へが突然彼を苦しめるのである。自分の好色漢的な行為が却つて、嫉妬をひき起す動因になるなぞは救はれないことだ。
更にこの悲劇が単なる悲劇として終つてゐるのであるが、それはこの顛倒《てんたう》した嫉妬に当るだけの行為が、情婦に少しもないことである。彼が接した数千の女性のうちで最も物堅いのが自分の情婦であつたことは、彼を救はないばかりか、益々疑ひ心の迷路に彼をひきずりこんでゐる。
かつて、暴力団狩のあつた時、彼の仲間も挙げられたのであるが、彼はその男の情婦で四号室の女と同じカフェーに働いてゐるのに電話をかけて呼びよせた。女は少しく自棄気味《やけぎみ》なところもあつて、泥酔して彼の誘惑に辷《すべ》りこんで来た。彼は深夜、この女を見るのに堪へられなくなつて、あづまアパートに帰つて来た。彼は情婦が外泊してゐるか何かの裏切行為があるかと、恐れながら、実は期待してゐたが、女は四号室に平穏に眠つて居り、彼を見ると寝場所を作つてくれるのであつた。――彼は張りつめて来た気持が折れると、自分に腹が立つて来て、急に女に対して怒り出した。そして、手前は、俺がサツへあげられたりなんぞしたら、安心して浮気しやがるだらう、と罵り言葉を繰りかへして撲《なぐ》るのであつた。撲りながら、自分が情けなくなつたのも事実であるが、このやうな彼の倒錯した気持は、この後もずつと続いてゐる。
最近のこと、彼はバクチ場で負けたので、情婦を抵当として、彼女に気を寄せてゐる某に金を借りたことがある。その時は、すぐ回収し得たので何の変化も二人の関係に起らなかつたわけだが、彼は徹夜のバクチから帰ると、また例の癖が出て、手前は某に好意を持つてるんだらう、さうにちがひない、さうでなければ、やつがあんなに手前を抵当に金を貸すはずがないんだと難じはじめ、遂には流血の騒ぎを起しかねない始末であつた。
そして、これらの憂欝を流し込むところは彼には結局女色より他になく、彼の放埒《はうらつ》な日々の行為はやはり続けられてゐるのである。四月になつてから、金沢の博覧会にテキヤの一行と稼ぎに行つてゐるが、毎日のやうに情婦のところへ手紙を送つて来る。それは半ば脅迫じみた文句に充たされてゐて、その地方で浪費されてゐるにちがひない彼の愛慾の顛倒した姿を映し出してゐる。――
そして、このことを十分に知つてゐる四号室の情婦は、焦躁に駆られた表情で、店に出る支度をすると、あれやこれやのレコードを手あたり次第にかけてゐる。彼女の音楽好きは益々|嵩《かう》じて来た様子であるが、云ふまでもなく、彼女自身はその理由をつきとめてはゐないのである。
この呉服物せり売りの桜[#「桜」に傍点]である色男に反して、一人の女のために――それも生れてはじめて知つた女のために背負投を食はされ、すつかり鬱《ふさ》ぎ込んで、女嫌ひになつて了つたコックが二階の便所の横、七号室にゐる。
見るから気の弱さうな顔つきで、眼は近眼鏡のために神経質に瞬《またた》いてゐる。彼の部屋から外出するためには炊事場の前を通らねばならないが、そこに女房れんが塊つてゐる時なぞは、少しうつむき加減に眼を伏せて、人に眺められるのを恐れるやうに、そそくさと出て行く。――暇のある女房たちも奇妙に彼を問題にしない。その白い料理服を着た猫背のうしろ姿をちらと見送る時は、律儀な男だ、もう郵便貯金が随分できたことだらうとか、何て風采のあがらない男だらうとか云つた短い感想が彼女たちの頭をかすめるだけである。独身のくせに、男として少しも話の種にならなかつたのを見ると、所謂《いはゆる》性的魅力と云ふものに欠けてゐるのだらう。
だから、浅草公園の安酒場の司厨場で働いてゐながら、女とのいざこざが少しもなかつたのである。誰も相手にしない萎《しな》びた男――この男のところへ、性《しやう》の悪い女ではあるが、事件屋と一しよに呶鳴《どな》り込んで来ると云ふやうな出来ごとがあつたので、少からず驚いて、アパートの人たちは珍しげに、眼を見はるのであつた。
――三十すぎまで、女を知らずにゐた彼の永い間の平穏な生活。毎月八日は、彼の勤め先である安酒場――お銚子一本通しものつき十銭、鍋物十銭の、実に喧騒を極め
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