ば、今度、彼は自分の細君の臨月が近づいて来たので、実家へ産みに帰らせた。
アパートの主人がいつも、ここで一しよになられた方はきつとすぐおめでたがありますよ、と云つてゐるが、説明者の場合もその通りで、それはかの多産の雀斑《そばかす》細君の影響かも知れぬ。もちろん、説明者は以前からここにゐて、細君の方から押しかけて来たのである。そして、実を云へば、その時すでに三ヶ月の腹をしてゐたのだが、これは誰も知らないことである。
ちやうどこの頃、説明者のつとめてゐる映画常設館で争議が起つてゐた。それはトーキーになつたため、説明者、伴奏音楽師なぞの馘首《くわくしゆ》の問題、解雇手当等の問題から、技師、表方《おもてかた》、テケツをも含めた争議にまでなつて了つたのである。――そして、このよく肥えた説明者は幹部級なので、勢ひ争議団でも指導的な部分にはひつてゐたが、彼は争議団員に激励演説をした。
「諸君、私は昨日、妻を実家の茨城県に帰して了つた。私は独りの軽い身になつて勇敢に戦ふためにはさうせざるを得なかつたのである。諸君も、我々の生命線を守るため、あくまでも戦ふ決意をかためていただきたいのである!」
こ
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