るかを聞いた、その時は、すぐにそれを出してやりたいと云ふ気持に駆られてゐた。
女は泣いて答へた。――彼は、たつた二百円で女の一生が傷けられなくて済むのかと、咏嘆したのである。そして、それ位の金ならば、自分が如何《どう》かしよう、と云つてから、だが、それは決してへんな野心からではない、唯見るに忍びないからだ、と気障《きざ》つぽいことを附加へるのであつた。もちろん、彼は今まで余り接したことのない女の媚態が彼をさうした激情に追ひ込んだのだとは気がつかなかつたのである。
この言訳が嘘であつたことは、彼が貯金を引き出した時に、彼の頭に浮んだ三つちがつた考へをここに記せば分るだらう。――永い間の苦心であるこの金を一度に使用して了ふのが実に惜しく思はれるのと同時に、それを打ち消すやうな、浮雲みたいな人道主義的な昂奮――これで、一人の女を泥沼から救へるのだと云ふ強い気持、それから、この二つの考への間に、ちよいと頭をのぞけてゐる、これ程にしてやるんだから、あの女はどれくらゐ自分に感謝するだらうか、と云ふ甘い期待。――これらが交互に、熱病に冒《をか》された時のやうにとりとめもなく、脳の中を行つたり来た
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