りしたわけである。
女に金を渡してやると彼は急に疲れを覚えて、誰も自分がこんな大金を惜しげもなく投げ出してやつたことを知らないのは、少し残念にも思はれた。
果して、女は彼の深切に酬《むく》いて来たのである。だが、彼には珍しさが先に立つて了つて、唯、浮ついた気持に終止してゐた。しかし、夢があつて、彼は家庭を営むことを描き出してゐた。
――結果は恐しいものとして終つた。何と云ふ性悪《しやうわる》の女だつたのだらう。その情夫と一しよにやつて来て、彼を脅迫するのであつた。彼は泣き出しさうな顔で下を向き、姦通とか誘拐《いうかい》とか貞操とか云ふ言葉をきいてゐた。それから、震へ声で、自分は決して悪いつもりでやつたのでないことを弁護しはじめたのであるが、顛倒して了つて、十分云ひ現すこともできなかつた。相手は彼の生命を脅《おびや》かすから、そのつもりでゐろ、と断言した。さうなると、彼は自分の正しさを主張するすべも失つて、唯悪かつたと謝るより仕方がなくなつて来た。彼は繰りかへして、赦《ゆる》しを乞うた。実にみじめな態度であつたので、彼らの去つた後は、アパートの人たちの聞耳を立ててゐるのにもはつきり
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