その彼がはじめて女を知つたのであるが、それは、同じ店に働いてゐる女中であつた。揃ひのケバケバしい新モスの着物に、赤い前掛をかけた彼女たちは、客の給仕に一日動き廻つてゐる。喧《やかま》しい店のことであるから、料理場にものを通したり、表を通る客に声をかけるに大きな声を張りあげるので、彼女たちの咽喉《のど》はつぶれて、それが店内に濛々としてゐる煙草の煙のために一層荒れて了つてゐる。だから、冗談《じようだん》を云ひかける客には、思ひもつかぬ嗄《しはが》れて太くなつた声で応酬して驚かすのである。――そして、終日銚子を指でつかんだり、料理皿を掌にのせて、日和下駄《ひよりげた》で湿つぽい店の土間を絶間なく、お互ひにぶつかりさうになりながら、忙しく動いてゐる。食事はかはるがはる裏の炊事場に出てする。たすきもかけて立つたまま、棚に菜皿をのつけて、冷い飯を掻き込むのである。大急ぎで済ますと、彼女たちはきまつて小楊枝《こやうじ》で歯をせせり、それを投げ棄てて、便所にはひつて用を足す。それから、再び店へ戻つて客の註文を聞き、高い声で、料理場に叫びかけるのである。――
彼の知つた女はその中に雑《まざ》つて
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