た――女たちの客を呼び込む声、泥酔した客たちの議論、演説、浪花節《なにはぶし》、からかひと嬌声《けうせい》、酒のこぼれ流れてゐる長い木の食卓、奥の料理場から、何々上り! と知らせる声なぞの雑然とした――安酒場の給料日であるが――夜更けて、四辺は静かになり、料理場の電燈も消されて、仲間のものが打ち揃つて風呂に行き、それから遊びに出かける時、彼だけは一人になつて、夜更けの公園を出て、アパートにもどつて来るのである。給料の三十円はそこで、鉛筆を握つた彼の前に色々と分割される。彼は諸支払の合計を新聞に入つて来た呉服屋大売出しの広告紙の裏に記して見る。残りのうちから、一ヶ月の小遣銭幾ら、貯金幾らと予定を作る。そして、この予定は決して破らうとはしなかつた。だから、何かのことがあつて、早く使ひ果して了つた場合は、残りの日数中、煙草銭もなしで、すごすのが常である。
 郵便貯金の通帳の記入高はもう二百円を越えてゐたのである。いつか、身をかためて独立する場合には、これが必要になつて来る、それまでに、せめて五百円にしたいと念願して、どんなことがあつても、これだけは手をつけまいと決めてゐたのである。
 皆はこ
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