の部屋から外出するためには炊事場の前を通らねばならないが、そこに女房れんが塊つてゐる時なぞは、少しうつむき加減に眼を伏せて、人に眺められるのを恐れるやうに、そそくさと出て行く。――暇のある女房たちも奇妙に彼を問題にしない。その白い料理服を着た猫背のうしろ姿をちらと見送る時は、律儀な男だ、もう郵便貯金が随分できたことだらうとか、何て風采のあがらない男だらうとか云つた短い感想が彼女たちの頭をかすめるだけである。独身のくせに、男として少しも話の種にならなかつたのを見ると、所謂《いはゆる》性的魅力と云ふものに欠けてゐるのだらう。
だから、浅草公園の安酒場の司厨場で働いてゐながら、女とのいざこざが少しもなかつたのである。誰も相手にしない萎《しな》びた男――この男のところへ、性《しやう》の悪い女ではあるが、事件屋と一しよに呶鳴《どな》り込んで来ると云ふやうな出来ごとがあつたので、少からず驚いて、アパートの人たちは珍しげに、眼を見はるのであつた。
――三十すぎまで、女を知らずにゐた彼の永い間の平穏な生活。毎月八日は、彼の勤め先である安酒場――お銚子一本通しものつき十銭、鍋物十銭の、実に喧騒を極め
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