んだと難じはじめ、遂には流血の騒ぎを起しかねない始末であつた。
 そして、これらの憂欝を流し込むところは彼には結局女色より他になく、彼の放埒《はうらつ》な日々の行為はやはり続けられてゐるのである。四月になつてから、金沢の博覧会にテキヤの一行と稼ぎに行つてゐるが、毎日のやうに情婦のところへ手紙を送つて来る。それは半ば脅迫じみた文句に充たされてゐて、その地方で浪費されてゐるにちがひない彼の愛慾の顛倒した姿を映し出してゐる。――
 そして、このことを十分に知つてゐる四号室の情婦は、焦躁に駆られた表情で、店に出る支度をすると、あれやこれやのレコードを手あたり次第にかけてゐる。彼女の音楽好きは益々|嵩《かう》じて来た様子であるが、云ふまでもなく、彼女自身はその理由をつきとめてはゐないのである。
 この呉服物せり売りの桜[#「桜」に傍点]である色男に反して、一人の女のために――それも生れてはじめて知つた女のために背負投を食はされ、すつかり鬱《ふさ》ぎ込んで、女嫌ひになつて了つたコックが二階の便所の横、七号室にゐる。
 見るから気の弱さうな顔つきで、眼は近眼鏡のために神経質に瞬《またた》いてゐる。彼
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