んだよ、チイ坊、お起きよ、学校だよ」と、朝で痰がのどにたまつてゐるので、皺嗄《しわが》れた声を出して、彼は云つた。
 ちやうど、この時刻に隣り部屋の女房は寝つく習慣なのであるが、毎朝、眼ざまし時計に眠りを妨げられることになつて了つた。もちろん、今までにだつて、彼女の昼寝をかき乱すものがあつたのである。それは四号室の蓄音器である。
 そこにはカフェーの女給が情夫と一しよに住んでゐるのだが、男はしよつちゆう家をあけて他処《よそ》に寝泊りしてゐる。それは他に女をこしらへるからである。
 女は店に出る前にきつと数枚のレコードをかけてきく。よほどの音楽好きと見えるが、それもゆつくり聴き楽しむと云ふ風には見えない。一枚を半分ばかりでよすと、次には騒々しいのをかけて見、それも途中でよして、他のとかへると云つた有様である。彼女はいらいらするので音楽を聴き、そのために一層いらいらし出すやうである。だから、暇のある女房たちが――ほら、ヒスがはじまつたよ、と云ふのも当つてゐないこともない。
 男は呉服物のせり売りの桜[#「桜」に傍点]をやつてゐる。色事師で――ニキビが少し眼立つが、色白の好い男である。アパー
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