さんは、自分が今どんなに居心地よくゐるかと云ふことを語つて、決して帰宅はしない、死水はこちらでとつて貰ふ決心でゐると云つてきかせた。そして、近頃は新聞を見ても広告欄には全然眼を触れないやうに努めてゐる。何故かと云へば、そこに「父居所を知らせ」とかその他の巧い文句で彼を探す広告が出てゐたら、魔がさして、こちらを離れて了はないものでもないからである、と附加へるのであつた。
これらの対話は、聞耳を立ててゐたヒステリーの牛太郎の女房が、次の爺さんの述懐と婆さんの同情と共に、みんなに披露して、哄笑《こうせう》したのであるが、何もをかしがることはないのである。
婆さんは爺さんの今までの女との交渉なぞを質問したりした。爺さんは淡泊に答へて、三十の時に女房に死別れてからは、余り接触がないと云つて、婆さんを安心させた。その女房は「早発性何とか云ふ気違ひになつてね、狂ひ死しましたがね。医者はあまり気苦労がすぎたからだと云つてたが。――当時、わたしたちの貧乏は随分はげしかつたので、貧乏があいつを殺したんでせう、きつと」
この言葉が終るか終らぬうちに、爺さんは驚かされて了つた。隣の部屋できいてゐた牛太郎
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