動写真か、布ぎれ一枚だけが舞台装置である安歌舞伎を見ることを彼にすすめるのであるが、爺さんも、そのことをもつともと思つて、子供の遊び友だちになつてやつたり、それが寝て了ふと、公園をぶらりと歩いて日本酒を一本だけ飲んで帰ると云ふ風である。そして、横びんからつづいて銀色のヒゲのはえてゐる顔を、首すぢまでも真赤にして、今晩は、とおとなしく部屋に入つて来るのである。
 女の子が学校へ行くやうになつてから、朝早く起きる必要があるので、彼は考へて眼ざまし時計を買つて来た。それは、指定の時刻が来ると、「煙も見えず雲もなく」をうたひ出す小型のものである。――それを、七時のところに眼ざましの針を廻してゐると、茶を入れてのんでゐた婆さんは云ふのであつた。
 その言葉は若い女が情夫に対して云ふやうな意味合のもので、どんなことがあつても、自分たちから離れないでくれ、しかし、息子さんは探偵を使つて私たちのところにあなたがゐることを嗅ぎつけることができるかも知れぬ、それが私は心配だ、と云つたのである。
「家から迎へに来ても帰らない? 爺さん、本当に帰つちやダメですよ」と、艶のある声で云つたのである。
 すると、爺
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