るかを聞いた、その時は、すぐにそれを出してやりたいと云ふ気持に駆られてゐた。
 女は泣いて答へた。――彼は、たつた二百円で女の一生が傷けられなくて済むのかと、咏嘆したのである。そして、それ位の金ならば、自分が如何《どう》かしよう、と云つてから、だが、それは決してへんな野心からではない、唯見るに忍びないからだ、と気障《きざ》つぽいことを附加へるのであつた。もちろん、彼は今まで余り接したことのない女の媚態が彼をさうした激情に追ひ込んだのだとは気がつかなかつたのである。
 この言訳が嘘であつたことは、彼が貯金を引き出した時に、彼の頭に浮んだ三つちがつた考へをここに記せば分るだらう。――永い間の苦心であるこの金を一度に使用して了ふのが実に惜しく思はれるのと同時に、それを打ち消すやうな、浮雲みたいな人道主義的な昂奮――これで、一人の女を泥沼から救へるのだと云ふ強い気持、それから、この二つの考への間に、ちよいと頭をのぞけてゐる、これ程にしてやるんだから、あの女はどれくらゐ自分に感謝するだらうか、と云ふ甘い期待。――これらが交互に、熱病に冒《をか》された時のやうにとりとめもなく、脳の中を行つたり来たりしたわけである。
 女に金を渡してやると彼は急に疲れを覚えて、誰も自分がこんな大金を惜しげもなく投げ出してやつたことを知らないのは、少し残念にも思はれた。
 果して、女は彼の深切に酬《むく》いて来たのである。だが、彼には珍しさが先に立つて了つて、唯、浮ついた気持に終止してゐた。しかし、夢があつて、彼は家庭を営むことを描き出してゐた。
 ――結果は恐しいものとして終つた。何と云ふ性悪《しやうわる》の女だつたのだらう。その情夫と一しよにやつて来て、彼を脅迫するのであつた。彼は泣き出しさうな顔で下を向き、姦通とか誘拐《いうかい》とか貞操とか云ふ言葉をきいてゐた。それから、震へ声で、自分は決して悪いつもりでやつたのでないことを弁護しはじめたのであるが、顛倒して了つて、十分云ひ現すこともできなかつた。相手は彼の生命を脅《おびや》かすから、そのつもりでゐろ、と断言した。さうなると、彼は自分の正しさを主張するすべも失つて、唯悪かつたと謝るより仕方がなくなつて来た。彼は繰りかへして、赦《ゆる》しを乞うた。実にみじめな態度であつたので、彼らの去つた後は、アパートの人たちの聞耳を立ててゐるのにもはつきり
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