分る位、悲しくなつて泣いたのである。
 情夫は幾度もやつて来て、手切金を請求した。百円とふつかけて来たのだが、金のことになると、彼は死物狂ひになつて交渉するだけの勇気が出て来る。そして、遂に五十円、五円づつの月賦で支払ふと云ふことに決着して、情夫の持つて来た紫の収入印紙の貼つてある妙な証書に、署名を強ひられたのである。
 この事件のために、毎夜晩くまでかかり、眠れぬ夜が続いて、めがねの下の骨は出ばつて来た。余計陰欝な元気のない顔になつてゐる。
 面白くもなく、毎日猫背の身体を料理場に運んで行く。女たちの声が喧しく店の中に響き渡つてゐるが、もうあの恐しい奴はどこかへ行つて了つた。――
 毎月八日の給料日になると、あの女の父親が鶴見の方から、彼のところへ月掛けの五円を受取りに来る。百姓をしてゐた爺さんだが、彼は何か娘が料理人に金を立てかへてやつたので、その取立を自分がしてゐるのだと信じてゐるらしい。性悪の女はそのやうに云つて、父親に月々五円の権利を与へたのだらう。
 料理人はこの不愉快な訪問者と少しでも一しよに話してゐるのに堪へられない。しかし、鈍感な老爺はゆるゆると煙草を吸ひ、茶を所望して、休み込んで色々と世間話をはじめるのである。そして、娘のことをかう語つた。
「どうせ、もう堅気の女ぢやねえんですから、誰か莫迦《ばか》な男で、金のあるやつをだまかして、絞つて少し仕送りしてくれるといいんですがね――今のところ、取つても自分だけでぱつぱと使つて、ちつとも廻してくれないんでね」
 料理人は苦りきつてゐる。彼は酸つぱい気持で、もう女なんか相手にすまいと決めて、すつかり女嫌ひになつてゐるが、かう云ふ人のいい男はまた誰かに好意を示されると、有頂天になるかも知れないのである。
 この隣りの八号室にゐる映画説明者も、実に人がよささうに見える。脊は低い方で、よく肥えてゐるのでまるまつちく指なんかも太く短く、美しいヒゲをのばしてゐる。そして、いつも白足袋、羽織姿で、身綺麗にしてゐる。そこで、暇のある女房たちも騒ぐし、人当りがよく如才もなく、世話好きに見えるので、いつか部屋代値下要求運動の時には代表者に選ばれた位である。もちろん、説明者だから口が巧く交渉なぞも円滑に行くだらうと、みんなが考へたためでもあつた。
 ところが、この男は見かけによらず人が悪くて、小才を弄するのである。
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