その彼がはじめて女を知つたのであるが、それは、同じ店に働いてゐる女中であつた。揃ひのケバケバしい新モスの着物に、赤い前掛をかけた彼女たちは、客の給仕に一日動き廻つてゐる。喧《やかま》しい店のことであるから、料理場にものを通したり、表を通る客に声をかけるに大きな声を張りあげるので、彼女たちの咽喉《のど》はつぶれて、それが店内に濛々としてゐる煙草の煙のために一層荒れて了つてゐる。だから、冗談《じようだん》を云ひかける客には、思ひもつかぬ嗄《しはが》れて太くなつた声で応酬して驚かすのである。――そして、終日銚子を指でつかんだり、料理皿を掌にのせて、日和下駄《ひよりげた》で湿つぽい店の土間を絶間なく、お互ひにぶつかりさうになりながら、忙しく動いてゐる。食事はかはるがはる裏の炊事場に出てする。たすきもかけて立つたまま、棚に菜皿をのつけて、冷い飯を掻き込むのである。大急ぎで済ますと、彼女たちはきまつて小楊枝《こやうじ》で歯をせせり、それを投げ棄てて、便所にはひつて用を足す。それから、再び店へ戻つて客の註文を聞き、高い声で、料理場に叫びかけるのである。――
 彼の知つた女はその中に雑《まざ》つて立ち働いてゐた小娘だ。多くの女性に対して彼は好意は持つてゐたが、彼女たちの方では彼を無視してゐるので、いつか、誰それを特別に好くと云ふやうな気持は失ひ、漫然とどの女も自分とは関係のないものとして、同一に眺める習慣がついて了つてゐる。ところが、その小娘が彼に馴々しく近寄つて来たので、彼は少しく狼狽したのである。そして、女に対してずつと持つて来た冷淡な気持は、勝手なことにはすつかり消え失せて、熱心にすべての女を親愛の情を以て見はじめた程であつた。
 女は彼に相談したいことがあると云つた。彼は落ちつきを失つて、どんなことを持ちかけられても、すぐに応じて了ふほど、心構へをなくしてゐた。また、何でもしてやりたいと云ふ、甘い気持になつてゐたのも事実である。
 彼は女の話を聞いて、をかしい程、すつかり昂奮して了つた。一人の女が自分の前にゐて、それが田舎《ゐなか》の達磨茶屋《だるまぢやや》に売られて行くと云ふ、自分はそれを救はうと思へば、できないこともない、一人の女をむごたらしい運命から防いでやれる、大きなことだ、――なぞと、頭の中で繰りかへした。彼はとつさに、女をさうした逆境に突き落す金がいくらであ
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