んだよ、チイ坊、お起きよ、学校だよ」と、朝で痰がのどにたまつてゐるので、皺嗄《しわが》れた声を出して、彼は云つた。
ちやうど、この時刻に隣り部屋の女房は寝つく習慣なのであるが、毎朝、眼ざまし時計に眠りを妨げられることになつて了つた。もちろん、今までにだつて、彼女の昼寝をかき乱すものがあつたのである。それは四号室の蓄音器である。
そこにはカフェーの女給が情夫と一しよに住んでゐるのだが、男はしよつちゆう家をあけて他処《よそ》に寝泊りしてゐる。それは他に女をこしらへるからである。
女は店に出る前にきつと数枚のレコードをかけてきく。よほどの音楽好きと見えるが、それもゆつくり聴き楽しむと云ふ風には見えない。一枚を半分ばかりでよすと、次には騒々しいのをかけて見、それも途中でよして、他のとかへると云つた有様である。彼女はいらいらするので音楽を聴き、そのために一層いらいらし出すやうである。だから、暇のある女房たちが――ほら、ヒスがはじまつたよ、と云ふのも当つてゐないこともない。
男は呉服物のせり売りの桜[#「桜」に傍点]をやつてゐる。色事師で――ニキビが少し眼立つが、色白の好い男である。アパートの主人の細君に云ひ寄つたのはこの男だ。あの場合は、奇妙な理由から失敗したが、そんなことは今までに殆どなかつたと云つてよい。しかし、如何《どう》して女と云ふものはこんなに脆《もろ》いかと云ふことを知ることは人生の上で大きな損をしたことだと彼は考へてゐる。そして、このことは彼を憂鬱にするが、情勢として女漁《をんなあさ》りに耽《ふけ》るより仕方がない。だから、彼の場合は、女に選び好みの感情は失はれてゐる。どの女も一様に見えるとすれば、勢ひさうなるではないか。――この人生の損は、益々彼にあつて、拡がつて行くものと見られる。何故ならば、女は定評のある色魔に対しては、一種の親愛な情を持つし、好んで接近して来るからである。それは、主として快楽が一切無責任だと予《あらかじ》め分つてゐることと、女同士の競争意識が掻き立てられるに拘《かかは》らず容易にその男が獲得できると云ふ安心からであらう。――
このことは、アパートの暇のある女房たちの間にも起つてゐる。彼女たちは彼に誘惑されることを待ち、しかし、口では、アパート一番の好い男であるが、誰でも構はず関係するなんて嫌なこつた、それが玉に瑕《きず》だなぞと
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