さんは、自分が今どんなに居心地よくゐるかと云ふことを語つて、決して帰宅はしない、死水はこちらでとつて貰ふ決心でゐると云つてきかせた。そして、近頃は新聞を見ても広告欄には全然眼を触れないやうに努めてゐる。何故かと云へば、そこに「父居所を知らせ」とかその他の巧い文句で彼を探す広告が出てゐたら、魔がさして、こちらを離れて了はないものでもないからである、と附加へるのであつた。
これらの対話は、聞耳を立ててゐたヒステリーの牛太郎の女房が、次の爺さんの述懐と婆さんの同情と共に、みんなに披露して、哄笑《こうせう》したのであるが、何もをかしがることはないのである。
婆さんは爺さんの今までの女との交渉なぞを質問したりした。爺さんは淡泊に答へて、三十の時に女房に死別れてからは、余り接触がないと云つて、婆さんを安心させた。その女房は「早発性何とか云ふ気違ひになつてね、狂ひ死しましたがね。医者はあまり気苦労がすぎたからだと云つてたが。――当時、わたしたちの貧乏は随分はげしかつたので、貧乏があいつを殺したんでせう、きつと」
この言葉が終るか終らぬうちに、爺さんは驚かされて了つた。隣の部屋できいてゐた牛太郎の女房も驚いた、と云つた。それは、突然、婆さんが泣き出したからであつた。婆さんは泣きながら云つた。
「わかりますよ、わかりますよ」それから嗚咽《をえつ》で声を震はせて――「貧乏がすぎて気が狂つて、それで若死して――お神さんの気持も、その時のあなたの気持も、わたしにはよく分りますよ」
それから二人とも黙つて了つた。爺さんは階下にわざわざ下りて行くのが大変なので、蒲団の裾の方に尿瓶《しびん》が置いてあるが、そこで小便をした。それから、褐色の斑点の出来てゐる太い腕を拱《こまね》いて横になつたが、――そのまま、永い間眠れなかつた。
爺さんは眼ざといので、いつも六時前にはさめるのであつた。だから、本当を云へば、眼ざまし時計なぞは要らないのである。しかし、彼は窓際から射して来る白々とした朝の光のうちに、枕もとの時計の針が廻つて七時になるのを待つてゐた。もう追つけうたひ出すぞ、と考へてゐると、チクタクの音を消して、突然、時計は陽気に「煙も見えず、雲もなく」と音楽を奏しはじめた。爺さんは安心したやうな表情で、横に枕を外して寝てゐる女の子を揺り動かした。
「さア、チイ坊や、時計がうたつてるから起きる
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